Beautiful Real Molecular World reproduced by Chemical Software
- Color and Molecular Structure

Kichisuke Nishimoto
Emeritus Professor of Osaka City University

  化学ソフトで蘇る美しい分子の世界 
  − 分子の形と物質の色 −

大阪市立大学名誉教授 西本吉助

美しい神秘的な分子の世界

 1811年 Avogadroは、気体反応の法則を説明するため『同温・同体積の気体は同数の分子を含む』という有名な分子説を発表したが、1803年に発表されたDaltonの原子説を信じていた化学者たちは、Avogadroの分子説をすぐ認めることができなかった。1858年 Cannizzaroは学会でAvogadroの分子説を紹介し、『すべての物質の基本単位は分子であり、分子は原子が結合したものである』と述べて、一躍、分子が脚光を浴びることとなった。Avogadroの功績はAvogadro数という普遍定数で、その名を残すこととなったが、Avogadroは既に1856年に世を去り、人々の称賛の声を耳にすることができなかったのは残念なことである。偶然にも同じ1858年、Kekuleは炭素四価説と炭素連鎖説を発表し、1865年にベンゼンの構造式を発表して、化学者を驚かせた。なお、原子価説は既に1852年 Franklandによって提案されている。このように、第一線の化学者たちは、早くも1850年頃から、肉眼では見ることのできない極微の世界の粒子である分子を構造式で表し、分子模型にまで発展させて、1874年には光学活性分子の構造の議論も展開している。そして、分子の世界という神秘とロマンに包まれた世界を、構造式と分子模型を使って、あたかも目で見える世界のように見せて、人々を魅了した。不思議な化学反応を、分子模型を使って合理的に筋道立てて説明する化学者の姿は、まさに、求道者の姿であり、哲学者・芸術家の姿である。
 科学と科学技術の進歩によって、今日では、分子の姿を直接見ることができるようになり、化学者が想像した分子の形は完全に正しいことが実証され、いまさらながら、昔の化学者の直感の鋭さに驚かされる。化学者にとっての唯一の誤算は、原子が究極の剛体粒子ではなく、構造をもっていたことである。1897年 Thomsonは、陰極線の実験から電子を発見し、電場の中を通過する電子の軌跡の測定から比 e/m(e:電子の荷電,m:電子の質量)を決定した。次いで、1908年 Rutherford達は、金箔によるα線の散乱実験から、原子核を発見し、原子の実体は点のように小さい原子核のまわりを、点のように小さい電子がまわっており、原子の内部はスカスカの真空であることがわかったのである。
 真空であるはずの原子が硬い粒子のように振る舞う。この不思議な事実を解明したのが量子力学である。量子力学から、電子は軟らかい電子雲をつくり、原子核を包んで原子をつくることが分かった。この軟らかくて不思議な能力をもつ原子の電子雲が出会うと、あるときは、くっついて分子をつくり、またあるときは、激しく弾き合って、一見、硬い粒子のように振る舞う。また、化学反応、すなわち分子の出会いと変化、も分子の電子雲が決めることが分かった。
 このように、原子・分子の世界は、化学者が想像もしなかった不思議に満ち満ちた神秘的な量子の世界だったのである。しかし、化学者にとっての不幸は、量子の世界の入り口に立ちはだかる大きな数学の壁であった。この数学の壁が化学者の直感を封じ込めてしまった嫌いがある。
 幸いにして、コンピュータと化学ソフトの出現によって、やっとこの大きな壁が取り除かれようとしている。例えば、最も簡単なHMO法でキノリン分子の電子雲を計算する場合、専門家で1ケ月はかかるが、普通のパソコンで0.1秒以下、つまり一瞬のうちに計算してくれる。すなわち、コンピュータと優れたソフトがあれば、化学者は分子の世界へ入って、分子模型を使う感覚で化学のゲームを楽しめる時代になった。不思議な能力をもつ電子雲に包まれた分子をコンピュータで描き出して見ると、まるで生き物のように躍動する分子の姿が見えてくる。そして、この躍動する分子と化学反応、のメカニズム、ひいては移ろいの現世との関わりに思いを馳せることができる。

分子の構造式とMO法

 『MO法が化学を変えた』。何故ならば、MO計算によって分子と分子間相互作用についてのすべての事柄が解明できるし、新しい分子の理論設計が可能になったからである。また、化学反応のメカニズムや、溶媒効果、触媒機能などもMO計算によって解明できるようになったからである。
 1926年に波動力学が確立されて、天才理論物理学者Diracは、化学のすべての問題は波動力学を解く数学的問題になったと喝破した。しかし、水素分子の波動方程式に対する彼等の挑戦は、ことごとく挫折した。量子力学の方程式が背負っている宿命のため、最も簡単な分子である水素分子の波動方程式でさえも解析的には解けなかったのである。
 この難問題を救ったのが、MullikenやHuckel、Lennard-Jonesという若い化学者たちであった。彼等は化学のオリジナル作品である構造式をもとにして、量子化学という新しい分野をつくりだした。構造式では、原子に原子価の数だけ手をつけて原子を繋ぎ分子をつくる。これから、『分子の量子状態は、原子の量子状態の一次結合で表せるのではないか』という発想が生まれた。この発想がLCAO−MO(Linear Combination of Atomic Orbital、AOの一次結合)法である。例えば、水素分子の電子状態をLCAO−MO近似で

               ψ=CAφA+CBφB

と表す。ここで、ψはMO、φAとφBは、それぞれ、水素原子AとBの1sである。また、Cは変分法で決定すべきAO係数である。φAとφBは既知であるから、Cさえ決めればMOが決まる。すなわち、解析的に解くことができない偏微分方程式である水素分子の方程式が、連立一次方程式を解く問題になった。しかも、水素分子の場合には、分子の対称性だけでAO係数が一義的に決まり、変分計算も要らない。すなわち,群論から

               ψ1=a(φA+φB)            (1)
               ψ2=b(φAーφB)            (2)

となる。分子の対称性だけでMOが決まるので、上式は、ab initio MO法であろうと、単純MO法であろうと同じ結果になる。ψ1は結合性MOとよばれ、このMOに電子が入ると、原子間に引力が生まれる。一方、ψ2は反結合性MOとよばれ、このMOに電子が入ると、原子間に斥力が生まれる。例えば、H2の場合は、2個の電子は対をつくってψ1に入るので、強い化学結合が形成されるが、(He)2の場合には、4個の電子のうち、2個はψ1に入るが、残りの2個はψ2に入ることになるので、引力と斥力が相殺し、化学結合はできない。
 このようにして、構造式で使われている謎の化学結合線は、LCAO−MO法によって、原子間に働く量子力学的引力線であることが分かり、構造式が面目を新たにした。構造式が分子の量子力学を救い、量子力学が構造式の真の意味づけをして構造式を救ってくれたのである。
 時代がどう変わろうと、原子・分子の世界探求の先駆者は化学者であることに変わりはない。量子の世紀が華々しくスタートし、画期的な研究と新しい科学技術開発研究が次から次へと展開されているが、物質の量子論の基礎は、原子・分子の量子論であり、これらの理論は、すべて、化学者が創案した分子の構造式、原子価論、分子模型、が指導原理になって展開されたことを誇りに思わなければならない。

分子の形と物質の色

 分子または分子複合体(以後、簡単のため分子複合体は省略する)が可視光線を吸収すると、物質は着色する。白色光線を構成する色々な波長の光のうちのどれかが抜けると、色が着く。例えば、黄色が抜けると青色になり、青色が抜けると黄色になる。つまり、分子が特定の波長の光を吸収すると、その色が抜けて、吸収されない可視光線で色をつくる。そのため、物質の色を余色とよぶことがある。
 分子の形と、分子の電子スペクトルのλmaxとの関係については、色素化学の分野で、次の経験則が知られている。
経験則1:共役二重結合系では、二重結合の数が増えると、最長波長領域に現れる、いわゆる第1吸収帯のλmaxは長波長側にシフトする。
経験則2:−OCH3とか−N(CH32のようなlone pairをもつ官能基は、助色団  として働く。すなわち、これらの官能基が導入されると、母体分子の第1吸収帯  のλmaxは長波長シフトし、吸収強度が増大する。
経験則3:−NO2とか−CORのようなπ電子系官能基は、発色団として働く。す  なわち、これらの官能基が導入されると、母体分子の第1吸収帯よりも長波長側  に新しい吸収帯が現れる(分子内CT吸収帯)。そのため、例えば、近紫外部に  吸収帯をもち無色であったものが、可視部に吸収帯が現れて着色する。
 経験則1は、直鎖状ポリエンや直鎖状シアニン(電荷共鳴系)などの化合物系列で発見され、HMO法やPPP法により、理論的に証明されている。また、経験則2と3は長倉−田仲の分子内CT理論により、ベンゼン誘導体について、見事に解明された。
 しかし、有機化学反応の法則が夜空に輝く星の数ほどあるように、分子の形と電子スペクトルのλmaxとの関係を記述する規則(大袈裟にいえば法則)もキラめく星の数ほどあるに違いない。
 今回は、演者が埼玉大学時田研究室と共同研究を行って得たいくつかの成果と、市大の研究室で大学院生たちと得たいくつかの成果を紹介し、上記の経験則からは説明できない興味あるいくつかの化合物系列についてelecton donor/electron acceptor相互作用の観点から、電子スペクトルのシフトを理論的に説明する。そして、分子が内蔵する不思議で神秘的なオービタル相互作用を説明する。
 π電子系分子の最長波長吸収帯(以後、第1吸収帯とよぶ。ただし、ベンゼンやナフタレンのαー吸収帯のように、最長波長吸収帯ではあるが、群論から禁制遷移に帰属される極めて弱い吸収帯は除く)はHOMO→LUMO電子遷移によって現れる吸収帯である。したがって、第1吸収帯のλmaxはHOMO→LUMO電子遷移エネルギーの逆数に比例する。正確にいえば、電子相関のため、配置間相互作用によって、他のMO間の電子遷移も混じるので、第1吸収帯の主要成分はHOMO→LUMO遷移であるといわなければならないが、今回は化学を語るのであって、物理を語るのではないから、なるべくクリヤーカットして話を進める。したがって、分子の形の変化とか、置換基やヘトロ原子によって、HOMOとLUMOのエネルギーがどのように変化し、その結果、第1吸収帯のλmaxがどう変わるかを議論すればよいことになる。

A:AS共鳴系とAS交替系

 私共が最初に発見したことは、ベンゼノイドには、π電子が分子全体を自由に駆け巡る系と、6π電子が(比較的)局在した系とがあり、前者はベンゼン環の数が一つ増える毎に、λmaxが約90nmもシフトするのに対し、後者はシフトが格段に小さく、しかも、λmaxがベンゼン環の数の平方根に比例することである。前者の場合には、π電子雲が分極しやすくsoftであるのに対し、後者の場合は、π電子雲が局在して分極しにくくhardであると仮定して、PPP−CI計算を行うと、実験結果を満足に再現できるし、未知の分子のλmaxも予測できる。両者の関係は、次のような電荷共鳴系と結合交替系に対比できるので、前者をaromatic sextet resonace 系(AS共鳴系),後者をaromatic sextet alternant(AS交替系)と命名した。
                                                                 λmax
電荷共鳴系の例;
          CH2=CH−CH=CH−CH=CH−CH2+                 nm
                                ↓    
         +CH2ーCH=CHーCH=CHーCH=CH2

結合交替系の例;
       CH2=CH−CH=CH−CH=CH−CH=CH2               nm
AS共鳴系の例;
                                                                      nm

           ε(HOMO)=α+0.220β、 ε(LUMO)=αー0.220β
AS交替系の例;
                                                                      nm


           ε(HOMO)=α+0.502β、 ε(LUMO)=αー0.502β

B:ナフタレンとアズレン

 分子内CT相互作用によって、λmaxは大きく変わる。HMO法から、平面7員環は電子供与性が大きく、平面5員環は電子受容性が大きいことがわかる。アズレンは7員環と5員環が接しており、分子内CT相互作用が大きいと予想できる。実際、アズレンは炭化水素であるのに、基底状態で極性をもち、水によく溶ける。同じ10π電子系であるナフタレンとアズレンのλmaxを比較すると、前者が275nm、後者は650nm(NM-γで計算した値)で、分子内CT相互作用で300nm以上も長波長へシフトする。そのため、ナフタレンは無色であるが、アズレンは分子内CT相互作用で発色し、美しい紫色を示す。これは、色素化学にとって重要な規則である。

C:分子が曲がると、何故、λmaxは短波長シフトするのか

 分子が曲がると、非局在化相互作用が小さくなり、HOMO−LUMOの間隔が開いて、λmaxは短波長シフトする。このことを、アントラセンとフェナトレン、および、ペンタセンと3個の異性体について、オービタルその立場からわかりやすく説明する。