計算化学による振動スペクトルの予測
−気相ジクロロメタン分子CH2Cl2、CHDCl2、CD2Cl2の振動数と赤外強度の非経験的分子軌道計算−

田辺 和俊, 松本 高利, 都築 誠二


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1 緒言

スペクトルは分子からの手紙であるといわれ、スペクトルを解析すれば分子やその集合体に関する多くの情報が得られる。中でも赤外やラマンなどの振動スペクトルは材料、生体、環境などの学術研究だけでなく、生産管理などの実用面でも幅広く利用されている。しかし、振動スペクトルを解析して分子種に関する確実な情報を引き出すことは容易でない。それは、振動スペクトルを解析する際には、50年前にColthupが作った特性吸収帯の表[1]が現在でも利用されているように未だ経験的な手法が用いられており、このような方法では分子種に関する確実な情報を得るのは困難だからである。なぜならば、振動スペクトルと化学構造の関係は1対1の対応ではないため、スペクトルの特徴から化学構造を推定することには限界があるからである[2]。
振動スペクトルの解析にはこのような経験的手法の他に理論的手法があり、この手法により振動スペクトルを解析すれば分子種に関するより確実な情報が得られる可能性がある。以前は計算機能力の不足から理論的手法は不可能であったが、近年の計算機能力の進展により分子軌道法や分子動力学法などの高精度の計算化学的手法を駆使した振動スペクトルの理論的な解析が可能になりつつある。中でも分子軌道法による振動スペクトルの計算については多くの研究が行われている。
しかし、これまでの振動スペクトルの理論計算では専ら振動数の再現に重点が置かれており、振動数の計算値から実測値を再現するための種々のscale factorが提案されている[3 - 6]。振動スペクトルには振動数、強度、半値幅の3大要素があり、スペクトルを再現するためにはこれら3大要素を理論計算する必要があるが、振動数以外の強度と半値幅に関する理論的研究はほとんどない。その中でSchlegelら[7, 8]は振動数と赤外強度を非経験的分子軌道法で計算しているが、電子相関を取り入れた計算は不十分である。これは当時の計算機能力の限界のためであり、現在では計算機能力の向上により電子相関をさらに十分に取り入れた計算が可能である。また、彼らは計算値との比較対照として、振動数と赤外強度の実測値に振動の非調和性を補正した推定値を用いている。通常の分子軌道計算のプログラムでは振動数は調和振動の近似のもとに計算されているが、実測の振動数には振動の非調和性が影響している。しかし、任意の分子について振動の非調和項の解析は容易ではなく、スペクトルの解析という観点からは計算値の比較対照は実測値そのものに対して行われるべきである。
そこで、我々は振動スペクトルの理論的解釈がどの程度まで可能か、すなわち現状の計算化学的手法が実測の振動スペクトルをどの程度まで再現するかを検証する一連の研究を行うことにした。本研究では非経験的分子軌道計算による気相分子の赤外スペクトルの再現を検討した。

2 方法

本研究では対象分子としてジクロロメタンCH2Cl2、CHDCl2、CD2Cl2を取り上げた。これらの分子については我々の一人が以前に赤外スペクトルを精密に測定し、振動数や赤外強度を決定しており[9]、これらの実測値が理論計算でどこまで再現できるかが興味あったからである。
そこで、これらの分子についてGAUSSIAN94プログラム[10]を用いて基底関数と計算法の多数の組み合わせについて分子構造を最適化した後、振動数と赤外強度を計算した。用いた基底関数は6-31G、6-31G (d)、6-31G(d,p)、6-31G(3df,3pd)、6-31+G、6-31+G(d)、6-31+G(d,p)、6-31+G(3df,3pd)、6-31++G、6-31++G(d)、6-31++G(d,p)、6-31++G(3df,3pd)、6-311G、6-311G(d)、6-311G(d,p)、6-311G(3df,3pd)、6-311+G、6-311+G(d)、6-311+G(d,p)、6-311+G(3df,3pd)、6-311++G、6-311++ G(d)、6-311++G(d,p)、6-311++G(3df,3pd)、D95、D95 (d)、D95(3df,3pd)、cc-pVDZ、cc-pVTZ、cc-pVQZ、AUG-cc-pVDZ、AUG-cc-pVTZ、AUG-cc-pVQZの33種類であり、計算法はRHF、B3LYP、BLYP、BPW91、MP2(Full)の5種類である。計算機はIBM RS/6000 SPシステム(Power2-135MHz)を用いた。

3 結果と考察

3. 1 計算結果

ジクロロメタンは5原子分子であり、振動の自由度は9である。CH2Cl2、CHDCl2、CD2Cl2各分子の9つの基準振動の振動モード、振動数と赤外強度の実測値をTable 1に示す。振動数の実測値は文献値[11]を、赤外強度の実測値は我々の文献値[9]を用いた。CH2Cl2とCD2Cl2は分子の対称性がC2vであり、赤外活性振動が8個、不活性振動が1個であるが、CHDCl2は対称性がCsであり、全ての振動が赤外活性である。

Table 1. Vibrational modes, experimental vibrational frequencies and infrared intensities
CH2Cl2  ν4ν3ν9ν7ν5ν8ν2ν1ν6
ModeaCCl2 scCCl2 ssCCl2 asCH2 roCH2 twCH2 waCH2 scCH2 ssCH2 as
Freqb Uc282 B717 B758 B898 B1153 B1268 B1467 C2999 B3040 B
Intd±Ere0.6±0.18.0±0.495.0±8.01.2±0.10.026.6±1.20.6±0.16.9±0.50.0
CHDCl2  ν6ν5ν9ν4ν8ν7ν3ν2ν1
ModeaCCl2 scCCl2 ssCCl2 asCD beCD beCH beCH beCD stCH st
Freqb Uc283 B692 B738 B778 C890 A1223 A1282 C2249 B3024 B
Intd±Ere0.6±0.15.7±0.472.0±3.02.8±1.029.0±0.717.0±0.40.6±0.12.4±0.13.1±0.1
CD2Cl2  ν4ν3ν7ν9ν5ν8ν2ν1ν6
ModeaCCl2 scCCl2 ssCD2 roCCl2 asCD2 twCD2 waCD2 scCD2 ssCD2 as
Freqb Uc282 C687 B712 D727 B826 C957 B1052 D2205 B2304 C
Intd±Ere0.6±0.18.0±1.50.067.0±3.00.050.0±2.00.2±0.14.3±0.20.0
aApproximate vibrational modes, sc: scissoring, ss: symmetric stretching, as: antisymmetric stretching, ro: rocking, tw: twisting, wa: wagging, be: bending, st: stretching [11].
bExperimental vibrational frequencies (cm-1) [11].
cUncertainties of experimental vibrational frequencies, A: 0~1, B: 1~3, C: 3~6, D: 6~15 cm-1 [11].
dExperimental infrared intensities (km mol-1) [9].
eErrors of experimental infrared intensities (km mol-1) [9].

振動数と赤外強度の計算値と実測値を比較するためには対応する振動を帰属する必要があるが、その際には赤外強度の計算値を考慮して注意深く帰属を行う必要がある。通常、分子軌道法により計算した振動を帰属する際には振動数の実測値と計算値を低い数値から並べて帰属させるが、今回の分子でこのような方法を用いると帰属を誤る場合がある。たとえばCH2Cl2についてBLYP/6-311G(d,p)で計算すると700 cm-1付近の振動数は652.4と660.7 cm-1になるが、これらをν3とν9(振動数の実測値717と758 cm-1)に帰属すると誤りとなる。なぜならば、振動数の計算値652.4 と660.7 cm-1の振動は赤外強度の計算値が192.30と12.29 km mol-1であり、ν3とν9の赤外強度の実測値8.0と95.0 km mol-1に対応していないからである。そこで、この場合には振動数を入れ替えて、振動数の計算値660.7 cm-1の振動をν3に、652.4 cm-1の振動をν9に帰属する必要がある。
本研究のジクロロメタン分子ではこのような振動数の逆転が頻繁に起きており、特にCD2Cl2においては振動数の近接する振動が3個(ν3、ν7、ν9)あるため、計算法によってはそれら3個の振動の振動数が逆転する場合も見られた。これまでの研究から分子の振動数を計算する方法の中で密度汎関数(DFT)法B3LYPは比較的良い結果を与えるとされている[4 - 6]が、CD2Cl2ではB3LYPでも振動数の逆転が起きており、この分子は振動の帰属に特に注意を要する分子である。また、今回検討した計算法の中では特にBLYPの場合にこの振動数の逆転が頻繁に現れており、CCl2対称伸縮振動の振動数がCCl2逆対称伸縮振動よりも高く計算される場合が多かった。この計算結果は実測値とは明らかに矛盾しており、BLYP法を用いる振動計算には注意する必要がある。このように振動の帰属に当たっては振動数だけでなく赤外強度の計算値も考慮しながら注意深く帰属を行う必要があることが分かった。
このように注意を払いながら振動の帰属を行い、対応する振動の振動数と赤外強度の計算値と実測値を比較した。CH2Cl2、CHDCl2、CD2Cl2の全ての振動について基底関数33種類と計算法5種類の組み合わせ、合計165種類で行った全ての計算の結果を示すことは不可能なので、RHF/6-31G、RHF/6-31G(d)、RHF/6-31G(d,p)、RHF/6-31G(3df,3pd)、BLYP/6-31G(3df,3pd)、B3LYP/6-31G(3df,3pd)、BPW91/6-31G(3df,3pd)、MP2/6-31G(3df,3pd)、MP2/6-311G(3df,3pd)、MP2/D95(3df,3pd)の10種類の結果のみTables 2, - 4に示す。

Table 2. Calculated vibrational frequencies (first row, cm-1), ratios of calculated to experimental vibrational frequencies (second row), calculated infrared intensities (third row, km mol-1) and ratios of calculated to experimental infrared intensities (fourth row) of CH2Cl2
No.ν4ν3ν9ν7ν5ν8ν2ν1ν6
Experimental frequency28271775889811531268146729993040
intensity0.68.095.01.20.026.60.66.90.0
RHF/6-31G289.7698.7752.8970.11285.21422.51599.83364.53470.5
1.0270.9740.9931.0801.1151.1221.0911.1221.142
1.33923.22160.431.6460.00064.870.0933.8850.599
2.2312.9031.6891.3712.4390.1540.563
RHF/6-31G(d)311.9774.5842.8995.61315.41450.71619.03336.23418.6
1.1061.0801.1121.1091.1411.1441.1041.1121.125
0.85821.50154.920.8520.00073.490.57312.2500.447
1.4302.6871.6310.7102.7630.9561.775
RHF/6-31G(d,p)311.7773.3841.2988.61303.91435.71602.83307.03391.3
1.1051.0781.1101.1011.1311.1321.0931.1031.116
0.87421.67154.500.8540.00068.100.32812.1000.403
1.4562.7081.6260.7112.5600.5471.754
RHF/6-31G(3df,3pd)307.3768.0833.1981.51283.71415.31592.73277.13356.4
1.0901.0711.0991.0931.1131.1161.0861.0931.104
0.64518.08141.140.5270.00052.550.0018.6100.000
1.0752.2601.4860.4391.9760.0011.248
BLYP/6-31G(3df,3pd)268.3673.2675.6871.51125.61244.11413.33030.03106.2
0.9510.9390.8910.9710.9760.9810.9631.0101.022
0.40411.07148.800.8380.00036.630.0437.1470.161
0.6731.3841.5660.6981.3770.0711.036
B3LYP/6-31G(3df,3pd)281.4710.0739.3901.01169.31289.01459.23106.33181.9
0.9980.9900.9751.0031.0141.0170.9951.0361.047
0.48411.94137.530.8840.00037.860.0056.4380.002
0.8061.4931.4480.7361.4230.0090.933
BPW91/6-31G(3df,3pd)274.3699.1718.9874.71132.01244.41411.63034.13109.7
0.9730.9750.9480.9740.9820.9810.9621.0121.023
0.44110.56144.921.1220.00033.290.0307.0320.032
0.7351.3201.5250.9351.2510.0491.019
MP2/6-31G(3df,3pd)295.7749.6808.8924.71208.31323.11490.53173.13256.4
1.0491.0451.0671.0301.0481.0431.0161.0581.071
0.47411.08113.070.9690.00037.530.0145.5740.162
0.7901.3851.1900.8081.4110.0230.808
MP2/6-311G(3df,3pd)a296.6749.8806.3929.71214.51328.01498.53159.23241.8
1.0521.0461.0641.0351.0531.0471.0211.0531.066
0.37010.37122.201.9620.00037.900.0764.2121.193
0.6171.2961.2861.6351.4250.1270.610
MP2/D95(3df,3pd)b293.9754.7819.2929.31212.71326.71504.43179.13257.1
1.0421.0531.0811.0351.0521.0461.0261.0601.071
0.4409.82105.900.9030.00036.870.1004.3150.311
0.7341.2271.1150.7531.3860.1660.625
aThe best method for vibrational frequency calculation. See text.
bThe best method for infrared intensity calculation. See text.

Table 3. Calculated vibrational frequencies (first row, cm-1), ratios of calculated to experimental vibrational frequencies (second row), calculated infrared intensities (third row, km mol-1) and ratios of calculated to experimental infrared intensities (fourth row) of CHDCl2
No.ν6ν5ν9ν4ν8ν7ν3ν2ν1
Experimental frequency2836927387788901223128222493024
intensity0.65.772.02.829.017.00.62.43.1
RHF/6-31G288.4681.1739.9835.1976.81366.01427.32507.73421.0
1.0190.9841.0031.0731.0981.1171.1131.1151.131
1.36820.57138.371.93737.1843.891.1812.5261.993
2.2803.6101.9220.6921.2822.5821.9681.0530.643
RHF/6-31G(d)310.5749.9817.2864.51011.41395.31445.02481.53380.9
1.0971.0841.1071.1111.1361.1411.1271.1031.118
0.87817.20113.343.43058.5850.921.3836.2845.731
1.4643.0171.5741.2252.0202.9952.3042.6181.849
RHF/6-31G(d,p)310.3748.3815.4859.11002.91381.91430.92460.13352.0
1.0971.0811.1051.1041.1271.1301.1161.0941.108
0.89517.22112.083.56758.4147.171.1306.2065.620
1.4923.0211.5571.2742.0142.7751.8842.5861.816
RHF/6-31G(3df,3pd)306.0743.4806.9852.5987.91361.01421.62437.43321.4
1.0811.0741.0931.0961.1101.1131.1091.0841.098
0.66414.58102.552.77550.8736.840.4794.2493.844
1.1062.5571.4240.9911.7542.1670.7991.7711.240
BLYP/6-31G(3df,3pd)266.4649.8656.7753.3854.41193.71260.32257.73078.5
0.9410.9390.8900.9680.9600.9760.9831.0041.018
0.4119.273130.531.49927.7824.910.5573.3843.198
0.6841.6271.8130.5360.9581.4650.9281.4101.032
B3LYP/6-31G(3df,3pd)279.3683.5712.5780.8890.41237.41300.92313.43153.7
0.9870.9880.9651.0041.0001.0121.0151.0291.043
0.4839.755113.571.88133.8925.750.4783.0302.807
0.8051.7111.5770.6721.1681.5150.7961.2630.905
BPW91/6-31G(3df,3pd)272.2671.5691.6759.1860.31195.61258.42261.03083.0
0.9620.9700.9370.9760.9670.9780.9821.0051.020
0.4398.471121.421.93032.5922.440.5093.1813.054
0.7321.4861.6860.6891.1241.3200.8481.3250.985
MP2/6-31G(3df,3pd)298.2729.5793.5809.5939.21288.11338.92388.23255.4
1.0541.0541.0751.0401.0551.0531.0441.0621.077
0.4787.51175.162.79545.2025.560.5072.7142.634
0.7971.3181.0440.9981.5591.5030.8461.1310.850
MP2/6-311G(3df,3pd)a297.7728.8790.3811.9935.21283.71335.72349.53203.0
1.0521.0531.0711.0441.0511.0501.0421.0451.059
0.3687.38482.972.76046.6725.480.7482.2262.570
0.6141.2951.1520.9861.6091.4991.2460.9270.829
MP2/D95(3df,3pd)b293.2729.2792.1814.4941.01286.71355.82394.23263.5
1.0361.0541.0731.0471.0571.0521.0581.0651.079
0.4437.03468.562.18845.4026.070.4862.0022.019
0.7381.2340.9520.7791.5661.5330.8100.8340.651
aThe best method for vibrational frequency calculation. See text.
bThe best method for infrared intensity calculation. See text.

Table 4. Calculated vibrational frequencies (first row, cm-1), ratios of calculated to experimental vibrational frequencies (second row), calculated infrared intensities (third row, km mol-1) and ratios of calculated to experimental infrared intensities (fourth row) of CD2Cl2
No.ν4ν3ν7ν9ν5ν8ν2ν1ν6
Experimental frequency282687712727826957105222052304
intensity0.68.00.067.00.050.00.24.30.0
RHF/6-31G287.1672.6762.9731.3913.71059.81171.62437.12586.1
1.0180.9791.0721.0061.1061.1071.1141.1051.122
1.38920.5330.005127.6100.00085.9001.2674.5670.008
2.3152.5671.9051.7186.3351.062
RHF/6-31G(d)309.0742.8787.1803.9935.01100.91188.72420.82547.2
1.0961.0811.1061.1061.1321.1501.1301.0981.106
0.89318.3490.002102.2070.000115.0122.23110.6080.820
1.4882.2941.5252.30011.1552.467
RHF/6-31G(d,p)308.9741.7781.9802.2927.21090.21176.92399.12526.4
1.0951.0801.0981.1031.1221.1391.1191.0881.097
0.91118.5630.002101.4280.000111.2661.88510.4840.778
1.5182.3201.5142.2259.4242.438
RHF/6-31G(3df,3pd)304.6736.9775.7793.9912.31074.81169.42377.72501.9
1.0801.0731.0891.0921.1051.1231.1121.0781.086
0.67715.7980.01793.7560.00093.1640.8007.5290.139
1.1291.9751.3991.8634.0011.751
BLYP/6-31G(3df,3pd)265.7647.4687.9655.0799.5926.11035.22197.32319.7
0.9420.9420.9660.9010.9680.9680.9840.9971.007
0.4229.7000.011102.4890.00067.8870.6485.7460.333
0.7031.2121.7981.2033.2381.336
B3LYP/6-31G(3df,3pd)278.7681.5711.5710.5830.1966.01069.12254.52375.8
0.9880.9920.9990.9771.0051.0091.0161.0221.031
0.50410.5520.010120.8620.00064.1530.4325.3280.099
0.8401.3191.5351.3582.1621.239
BPW91/6-31G(3df,3pd)271.6671.2691.6691.6803.7930.61033.72201.62321.7
0.9630.9770.9710.9510.9730.9720.9830.9981.008
0.4599.3710.046110.2870.00060.1340.2995.5370.143
0.7651.1711.6461.2831.4951.288
MP2/6-31G(3df,3pd)296.8727.8732.7782.1867.51015.51101.02329.42452.5
1.0521.0591.0291.0761.0501.0611.0471.0561.064
0.4869.2730.04170.1810.00073.4260.2884.8520.001
0.8101.1591.0471.4691.4411.128
MP2/6-311G(3df,3pd)a296.4726.3735.9779.1865.21010.01098.12290.42414.1
1.0511.0571.0341.0721.0471.0551.0441.0391.048
0.3768.8440.25377.5400.00075.3580.1823.7420.360
0.6271.1051.1571.5070.9090.870
MP2/D95(3df,3pd)b291.9726.2738.2779.7867.01018.01115.42336.92456.3
1.0351.0571.0371.0731.0501.0641.0601.0601.066
0.4508.3570.03163.7180.00074.0220.1633.5910.034
0.7511.0450.9511.4800.8130.835
aThe best method for vibrational frequency calculation. See text.
bThe best method for infrared intensity calculation. See text.

3. 2 振動数の傾向

Tables 2, - 4に示すように、振動数の計算値はほぼ実測値を再現している。本研究で用いた基底関数33種類と計算法5種類の組み合わせ、計165種類の各計算法について、合計27個の振動数の計算値/実測値の比(以下では振動数比と略記)の平均値と標準偏差を算出した。全ての振動についての総平均は1.015、標準偏差は0.053となり、振動数比はかなり一定の値に収まる。しかし、振動モードごとに振動数比の平均を求めると顕著な傾向が認められる。3種類の分子の各9個の振動ごとに165種類の計算法について求めた振動数比の平均値と標準偏差をTable 5に示す。 

Table 5. Means and standard deviations of ratios of calculated to experimental vibrational frequencies and infrared intensities
CH2Cl2CHDCl2CD2Cl2
No.MFaSDFbMIcSDIdNo.MFaSDFbMIcSDIdNo.MFaSDFbMIcSDId
ν40.9980.0600.8920.365ν60.9900.0600.9140.376ν40.9890.0600.9330.377
ν30.9780.0651.7310.462ν50.9820.0622.0030.560ν30.9810.0641.5130.397
ν90.9650.0931.6580.237ν90.9670.0871.8020.391ν71.0110.047--
ν71.0150.0461.5380.903ν41.0150.0480.8070.245ν90.9700.0861.7920.402
ν51.0320.052--ν81.0220.0571.3650.394ν51.0240.052--
ν81.0380.0521.9010.506ν71.0340.0522.0500.557ν81.0320.0591.6110.376
ν21.0070.0460.2190.351ν31.0290.0471.5510.637ν21.0300.0483.6932.999
ν11.0490.0321.2070.508ν21.0420.0321.7030.749ν11.0340.0331.5940.600
ν61.0630.033--ν11.0560.0321.2850.650ν61.0460.032--
aMeans of ratios of calculated to experimental vibrational frequencies.
bStandard deviations of ratios of calculated to experimental vibrational frequencies.
cMeans of ratios of calculated to experimental infrared intensities.
dStandard deviations of ratios of calculated to experimental infrared intensities.

3種類の分子に共通して、振動数の高い振動ほど振動数比も高いという傾向が認められる。分子軌道法による振動数の計算値を補正するscale factorとして種々の値がこれまでに提案されている[3 - 6]。従来のscale factorは振動数に関わらず一定値を用いるのに対し、最近、多数の分子についてのDFT法による振動数の計算結果から、振動数と1次式の関係のscale factorを用いる linear scaling法が提案された[5, 6]。我々の結果はRHFとMP2を含む計算法全般についてこの方法と同様な傾向があることを示している。振動モードごとに振動数比をまとめると、CH伸縮振動では1.049-1.063、CD伸縮振動では1.034-1.046、CHおよびCD変角振動では1.007-1.038、CCl2逆対称伸縮振動では0.965-0.970、CCl2対称伸縮振動では0.978-0.982、CCl2はさみ振動では0.989-0.998となり、それぞれかなり狭い範囲に収まる。特に興味深いのは塩素原子が関与する3個の振動の振動数比であり、この中では振動数が最も高いCCl2逆対称伸縮振動の振動数比が最も低く、CCl2対称伸縮振動がそれに次ぎ、最も振動数が低いCCl2はさみ振動の振動数比が最大になった。この結果は振動数が高いほど振動数比も高い関係にあるとする上記のlinear scaling法とは逆の結果であり、興味深い。分子軌道法では調和振動の近似のもとで分子の振動数を計算するが、現実の分子の振動は非調和的であり、そのため振動数比は振動の非調和性と関係がある[3]。上記の振動数比がそれぞれの振動モードの非調和性を表しているとすると興味深い。また、上記の振動数比は種々の分子振動における非調和性の解析結果と対応しているように思われる。
一方、標準偏差はどの分子でもCCl2逆対称伸縮振動で最大、CCl2対称伸縮振動がそれに次ぎ、CCl2はさみ振動がさらにそれに次ぎ、CHまたはCD伸縮振動で最小、という傾向が見られる。このことは、種々の計算法のどれを用いてもCHまたはCD伸縮振動の振動数はばらつきが比較的小さいのに対し、塩素原子が関与する振動の振動数は計算法によってかなりばらつくことを意味する。塩素原子が関与するこれら3個の振動の振動数は基底関数により大きく変動し、6-31G、6-311G、D95などの基底関数を使って計算したこれらの振動の振動数は分極関数を含む基底関数を使った場合に比べかなり低い値になる。一方、分極関数を含む基底関数を使った場合には基底関数の影響はごくわずかである。このように塩素原子が関与する振動の振動数の計算には分極関数を含む基底関数を使う必要があることが分かる。また、塩素原子が関与するこれら3個の振動の振動数は計算法によっても大きく変動し、Tables 2, - 4に示すようにRHFやMP2に比べてDFT法は低目の振動数を与える傾向が認められるが、この傾向は文献[6, 12]においても指摘されている。

3. 3 赤外強度の傾向

赤外強度の計算値は振動数の場合よりも実測値との差が大きい。Table 5に示すように、合計27個の振動の内、赤外不活性および観測されない振動を除く22個の振動についての赤外強度の計算値/実測値の比(以下では強度比と略記)の平均値は1.534、標準偏差は0.593となる。上記のように、調和振動の近似の下で計算される振動数あるいは赤外強度の計算値と、振動の非調和性が含まれている実測値との比の大半は分子振動の非調和性によるものと考えられる。したがって、上記の振動数比1.015は振動数に対する非調和性の影響が僅か1.5%にすぎないことを意味する。それに対して、強度比1.534という結果は赤外強度に対する非調和性の影響が非常に大きいこと、およびその影響が赤外強度を減少させる方向にあることを意味している。振動数に対する非調和性の影響に関する研究は多いが、赤外強度に対する非調和性の影響に関する研究はないので、この結果を検証できる実験データはないが、興味深い結果である。赤外強度の計算値と実測値の違いのもう1つの原因として考えられるのが電子相関の効果である。本研究の計算結果から計算法ごとに強度比の平均値を求めると、RHFは1.921、BLYPは1.444、B3LYPは1.455、BPW91は1.434、MP2は1.417となり、電子相関が取り入れられていないRHFでは計算値が実測値の2倍近い値になる。赤外強度をMP3以上の電子相関補正法で計算した論文は見あたらないので、DFT法やMP2における強度比がほぼ1.5という値が振動の非調和性によるものか、電子相関によるものかどうかは不明であるが、この点も興味ある結果である。
赤外強度の場合は振動数の場合と異なり標準偏差が大きいので、振動数の場合に認められたような振動モードごとの傾向は認めにくいが、Table 5の結果から以下の2点が見いだされる。まず、CCl2はさみ振動の強度比が他の振動モードとは明確に異なって0.9前後の値である点である。この結果はこの振動の赤外強度に対する振動の非調和性の影響が小さいことを意味する。この振動では振動数比も1.0にきわめて近いので、振動数の低いこのCCl2はさみ振動では振動の非調和性は非常に小さいと考えられる。2点目はCH2およびCD2はさみ振動における強度比の異常値である。CH2Cl2のν2の強度比0.219は他の振動モードと比べて異常に低く、一方、CD2Cl2のν2の強度比3.693は他の振動モードと比べて異常に高い。前者については我々が以前に報告した[9]ように、この振動に関してはフェルミ共鳴の影響と近傍の強い振動との重なりのために、吸収帯の形状を分離することが困難であり、赤外強度の実測値にはかなりの測定誤差がある。したがって本研究で得られた強度比0.219という数値は、この振動の真の(フェルミ共鳴などの影響を除いた)赤外強度が我々の実測値0.6 km mol-1の約1/5であることを意味している。また、後者における強度比3.693という異常値についても同様の問題がある。すなわち、この振動についてもフェルミ共鳴の影響と近傍の強い振動ν8との重なりがあり[9]、我々の強度実測値 0.2 km mol-1の3倍以上の値が真の強度であると考えられる。

3. 4 計算法の影響

分子軌道法による理論計算が赤外スペクトルをどの程度まで再現するかという観点からは、振動数や赤外強度の計算値の絶対値が実測値と大きくかけ離れていても問題ではなく、重要なことは計算値と実測値の比率が一定であることである。すなわち、その比率が一定であれば比率をscale factorとして計算値を補正すれば実測値が再現できることになる。
この観点から各計算法の精度を比較するために、基底関数と計算法の組み合わせについて、全振動(赤外強度については不活性および観測できない振動は除く) についての振動数比と強度比の平均値と標準誤差を計算した。ただし、実測値には測定誤差が存在するので、この誤差に見合った重みを考慮して平均値と標準偏差を計算した。すなわち、振動数の場合は文献[11]に記載されている振動数の不確かさのクラスによって測定誤差ΔνをA: 1.0、B: 2.0、C: 4.5、D: 10.5 cm-1とし、これに基づく重みwi

により計算した。一方、赤外強度の場合は強度の実測値Iとその測定誤差DIに対して重みwi

により計算した。これらの重みwiを用い、振動数比または強度比xiの平均Mと標準偏差SD

により計算した。この標準偏差を計算法の精度の目安となる計算誤差とみなした。種々の計算法の内の最適法を決めるために、この標準偏差をCH2Cl2、CHDCl2、CD2Cl2の3分子について平均した。また、最適の計算法の選定に当たっては計算時間も評価基準の1つになるので、CH2Cl2、CHDCl2、CD2Cl2の3分子の計算時間(CPU時間)を平均した。このようにして求めた各計算法の標準偏差と計算時間をTable 6に示す。この結果から計算法の影響について幾つかの傾向を見いだすことができる。

Table 6. Average standard deviations of ratios of calculated to experimental vibrational frequencies and infrared intensities, and CPU times
RHFBLYPB3LYPBPW91MP2
SDFaSDIbTcSDFaSDIbTcSDFaSDIbTcSDFaSDIbTcSDFaSDIbTc
6-31G0.05460.6090.0400.07380.5550.1670.06120.5230.1150.03780.5790.1280.05910.3710.084
6-31G(d)0.02080.6420.0660.04180.3970.2010.02610.3410.2060.02620.3330.2090.01300.3400.169
6-31G(d,p)0.01800.5840.0620.04040.3800.2130.02410.3190.2040.02480.3080.2040.01150.3990.200
6-31G(3df,3pd)0.01510.4310.7350.03420.3231.4830.01910.2621.6590.01940.2361.4590.01010.2643.498
6-31+G0.05540.8340.0590.07700.6500.1650.06330.5960.1660.06300.5850.1750.06060.4770.131
6-31+G(d)0.02160.7380.0780.04460.5000.2770.02790.4490.2800.02810.3960.2860.01270.4440.267
6-31+G(d,p)0.01870.6740.0730.04310.4820.2880.02590.4260.2890.02650.3740.2790.01180.5030.284
6-31+G(3df,3pd)0.01510.4320.9430.03700.3841.8230.02080.3152.0990.02110.2861.5190.00970.2924.651
6-31++G0.05480.8480.0600.07670.6360.1770.06310.5930.1860.06260.5580.1870.06010.5040.144
6-31++G(d)0.02110.7850.0800.04450.5180.2910.02780.4780.3000.02780.4060.3000.01260.4970.291
6-31++G(d,p)0.01830.7170.0760.04280.5000.2900.02580.4550.3270.02640.3840.2960.01240.5690.313
6-31++G(3df,3pd)0.01500.4310.9770.03700.3781.8860.02080.3092.1950.02110.2801.9360.00960.2925.122
6-311G0.05380.6750.0670.08130.7440.1900.06670.6270.1930.06600.7420.1940.05910.5050.186
6-311G(d)0.02420.6460.0900.04770.6210.3040.03120.5040.3310.03020.6210.3150.01570.4540.331
6-311G(d,p)0.01970.5680.0850.04500.5500.3160.02780.4370.3290.02770.5100.3270.01350.4660.380
6-311G(3df,3pd)0.01710.4271.3510.04030.4101.8960.02310.3442.2310.02290.3351.5200.00930.3095.355
6-311+G0.04980.7490.0790.07740.5490.2590.06260.4770.2670.06210.4830.2630.05430.4290.281
6-311+G(d)0.02360.7280.1130.04600.4540.4070.02960.3770.4200.02870.3870.4220.01450.3810.510
6-311+G(d,p)0.01920.6670.1100.04340.4420.4170.02630.3680.4320.02620.3450.4290.01260.4700.568
6-311+G(3df,3pd)0.01670.4401.7150.03990.3992.3540.02280.3292.6390.02260.3012.3490.00950.3007.317
6-311++G0.04900.7250.0820.07680.5610.2770.06190.4810.2850.06140.4950.2810.05310.4300.284
6-311++G(d)0.02310.7370.1170.04560.4630.4290.02910.3850.4400.02810.3930.4410.01340.4080.547
6-311++G(d,p)0.01930.5670.0990.04310.4460.4420.02590.3690.4590.02600.3440.4530.01250.4880.629
6-311++G(3df,3pd)0.01660.4412.4830.03980.4002.4540.02260.3312.9270.02260.3032.4500.00950.3067.782
D950.05850.8720.0570.06970.7490.1410.05940.6350.1430.05980.7300.1450.05880.9370.117
D95(d)0.02021.2110.0780.03480.5440.2290.02200.5360.2390.02220.5460.2380.01350.6910.225
D95(3df,3pd)0.01570.4330.8590.03390.3281.5750.01900.2821.8400.01970.2511.5870.01110.2294.354
cc-pVDZ0.01490.5230.1060.03650.3300.3470.02310.2690.3550.02430.2480.3530.01190.3410.328
cc-pVTZ0.01670.3270.5520.04230.3551.9980.02600.2762.1710.02580.2722.0200.01110.2523.221
cc-pVQZ0.01600.44311.980.04040.36312.100.02430.29214.990.02430.27312.230.01200.290131.6
AUG-cc-pVDZ0.01240.4450.2090.03920.3740.7700.02480.3060.7910.02610.2730.7870.0137 0.2520.998
AUG-cc-pVTZ0.01680.4614.9660.04330.4046.5650.02720.3368.0200.02680.3096.7640.00960.30037.845
AUG-cc-pVQZ0.01610.44974.500.04070.39153.570.02430.32072.350.02430.29458.380.01200.314344.47
aAverage standard deviations of ratios of calculated to experimental vibrational frequencies.
bAverage standard deviations of ratios of calculated to experimental infrared intensities.
cCPU times (h).

まず第1は振動数の計算誤差に対する基底関数の影響である。たとえば、計算法RHFにおいて基底関数を6-31G、6-31G(d)、6-31G(d,p)、6-31G(3df,3pd)と変えると計算誤差は0.0546、0.0208、0.0180、0.0151と大幅に減少する。これに対して、同じRHFにおいて基底関数を6-31G、6-31+G、6-31++G、6-311G、6-311+G、6-311++Gと変えても計算誤差は0.0546、0.0554、0.0548、0.0538、0.0498、0.0490と変化は小さい。これは上記のように、本研究のジクロロメタンのような塩素原子を含む分子では分極関数の影響が大きいが、diffuse関数の影響は小さいことを示している。また、電子相関の効果としてRHFをMP2に変えると計算誤差は全般的にはほぼ半減しているが、分極関数を含まない6-31G、6-31+G、6-31++G、6-311G、6-311+G、6-311++GではRHFとMP2とで計算誤差が減少せず、むしろMP2の方が若干ではあるが誤差が大きい。これは電子相関の補正の効果を引き出すためには分極関数を取り入れた基底関数を用いる必要があることを示しているが、MP2で誤差が増えた原因は不明である。
第2点は振動数の計算誤差に対する計算法の影響である。Table 6の結果から各計算法における計算誤差の平均を算出するとRHFでは0.0257、BLYPでは0.0485、B3LYPでは0.0329、BPW91では0.0322、MP2では0.0213となる。この結果から、まず本研究の場合にはRHFがDFT法より良い精度を与えることが分かる。多数の分子についての振動数の計算結果から、RHFが最も精度が悪く、MP2がそれに次ぎ、DFTが最も良い精度であるとの報告がある[4]。彼らと我々では分子の数と種類が違うので結果の違いは当然であるが、上記のようにDFT法は塩素原子の関与する振動の振動数を低く与える傾向があり、これが誤差を大きくしている。また、MP2はRHFより計算時間がほぼ2倍程度かかるのに計算精度はそれほど向上しないことが分かる。さらに、DFT法の中ではこれまでB3LYPが比較的よい結果を与えるとされているが、本研究の結果ではBPW91もB3LYPに匹敵する誤差になった。この結果は文献[11]に示されているB3LYPとB3PW91が最も誤差が小さいという結果と対応している。
第3点は計算精度と計算時間の関係であり、全般的に基底関数や計算法の精度を上げれば、計算時間は長くなるが振動数の計算誤差は減少するという傾向が認められる。しかし、大幅な計算時間がかかるcc-pVQZ、AUG-cc-pVTZ、AUG-cc-pVQZなどの基底関数を用いた場合に必ずしも最高の計算精度が得られるとは限らない点である。Table 6の結果において、各計算法の中で最高の計算精度が得られた基底関数はRHFではAUG-cc-PVDZ、BLYP とB3LYPではD95(3df,3pd)、BPW91では6-31G(3df,3pd)、MP2では6-311G(3pd,3df)であり、これらの基底関数の場合の計算時間は各計算法の中で最長ではない。したがって、計算精度が最高で、かつ計算時間も適切な最適な計算法が存在することが分かる。
第4点は赤外強度に関する全般的傾向として、上記の振動数に関する傾向ほど明確ではないが、ほぼ同様の傾向が認められる。この場合に特筆すべき点として、各計算法の中で基底関数6-31G(3pd,3df)とDFT法BLYP、B3LYP、BPW91の組み合わせにおいて赤外強度の計算誤差が最小となっている。振動数の再現においてはDFT法、特にB3LYPがよい結果を与えることはこれまでの研究から判明しているが、赤外強度の再現に関しては種々の計算法を比較した研究はこれまで皆無である。本研究ではジクロロメタン分子しか扱っていないので、一般の分子についてこの結論があてはまるかどうかは不明であるが、比較的計算時間の短い基底関数6-31G(3pd,3df)とDFT法BLYP、B3LYP、BPW91の組み合わせが赤外強度の計算法として最適であることは興味深く、他の多くの分子についての検討が待たれる。

3. 5 最適の計算法

Table 6の結果から最適の計算法を決定することができるが、計算の目的によって最適の計算法を選定する基準が異なる。赤外スペクトルを理論計算する目的はいろいろあるが、実測の赤外スペクトルに現れている吸収帯がどの振動モードによるかを決める振動の帰属を行う場合には、振動数の計算値が実測値にできるだけ近く、計算値の絶対的な精度が高い計算法であることが要求される。このような場合は一般に少数の分子について計算を行うことが多いので計算時間はあまり問題にならない。そこで、この観点からTable 6の結果の中から標準偏差の最も小さい計算法を探すと、振動数に対しては6-311G (3df,3pd)の基底関数を用いて MP2計算を行うと標準偏差0.0093、すなわち相対誤差0.93%で実測振動数が再現できることになる。この相対誤差0.93%という数値はCH伸縮振動が現れる3000 cm-1領域において平均28 cm-1の計算誤差を与えることを意味するので、実測の赤外吸収帯の帰属には絶対的な精度として満足できる計算法とはいえない。また、赤外強度に対してはD95(3df,3pd)の基底関数を用いてMP2計算を行うと標準偏差0.229、すなわち相対誤差22.9%で実測強度が再現できることになる。赤外強度の測定誤差は実測強度の通常10%程度なので、強度の計算誤差22.9%も絶対的な誤差としては必ずしも満足できる値ではない。したがって、このような実測吸収帯の帰属を行う場合には、これらの計算法を用いて振動数と赤外強度を計算し、本研究で行ったように振動数だけでなく赤外強度の計算値も考慮に入れて慎重に帰属を行うことが必要であると結論できる。
以上の場合は計算値の絶対的な精度の高さが要求されるので、現状の計算法でこのような問題を解決することは難題である。しかし、分子の環境の変化などに由来する実測スペクトルの変化を解析する場合には、振動数や赤外強度の相対的な変化が問題となるので、上記ほどの精度の高さは必要ない。たとえば、孤立分子と分子錯体について振動数を分子軌道法で計算し、マトリックス単離法で観測した赤外スペクトルとの比較から、分子錯体の存在およびその構造を推定した研究がある[13 - 15]。このような問題の場合には振動数の絶対値は問題でなく、相対的なシフトが計算で説明できればよいので、上記の計算法で十分解決可能と考えられる。
赤外スペクトルを理論計算する3番目の目的として、緒言で記した未知化学種の同定がある。この場合には無数の化学種の中から実測の赤外スペクトルに一致する計算スペクトルを示す化学種を探索することが必要となる。スペクトルの一致は振動数や赤外強度の数値ではなくスペクトルの図形として判断するので、計算精度はあまり問題にならない。本研究で検討した計算法の中で最も近似の低い計算法は基底関数6-31Gと計算法RHFの組み合わせであるが、この場合の振動数の計算誤差5.46%はスペクトル図形の再現には十分な精度である。一方、赤外強度の計算誤差60.9%は測定誤差と比較すると満足できる精度ではない。しかし、未知化学種の赤外スペクトルを測定する場合、スペクトル中の最大ピークが通常5%程度の透過率になるようセルの厚さを調節して測定が行われるので、その絶対的な強度は問題にならない。したがって、このような目的では相対的な強度が再現できれば十分であり、この点で上記の計算誤差はこの目的には十分な計算精度である。むしろ、この場合は莫大な数の化学種について赤外スペクトルを計算する必要があるので、最大の選定基準は計算時間である。上記の計算法での計算時間は0.025時間であり、多数の化学種の赤外スペクトルを計算できる方法とはいえない。この目的には同程度の計算精度でかつ計算時間が圧倒的に短い計算法の開発が望まれる。
さらに、実測の赤外スペクトルを再現するための理論計算には問題が山積している。第1は吸収帯の半値幅を計算できる理論が現在ないことである。分子軌道法で計算される赤外強度は実測スペクトルでは吸収帯の面積強度に対応する。現実の分子の赤外スペクトルでは一般に吸収帯の半値幅は振動により大きく異なる。したがって、実測の赤外スペクトルを再現するためには吸収帯の半値幅を理論計算する必要がある。しかし、従来の赤外スペクトルの半値幅の理論では分子は剛体として取り扱われているため、吸収帯による半値幅の違いを説明できない。第2の問題は赤外スペクトルの測定が最も多く行われる液体や固体状態のスペクトルを再現するための溶媒効果の理論が不完全なことである。我々の報告[9]にあるように、ジクロロメタン分子は水素結合のような強い分子間相互作用をするとは考えられないが、気体と液体の赤外スペクトルには大きな変化が観測される。このような溶媒効果を説明する理論として古典的な誘電体モデルがあり、それに基づいて振動数や赤外強度の溶媒効果の計算法として、Onsager Reaction Field Model、Self Consistent Isodensity Polarized Continuum Modelなどが開発され、GAUSSIANプログラムに組み込まれている[3]。しかし、これらの理論モデルにおいても分子の内部振動が考慮されていないため、ジクロロメタンで観測される吸収帯による溶媒効果の違いが説明できない。第3は実測の赤外スペクトルには倍音や結合音がかなりの強度で現れたり、また、上記のように、フェルミ共鳴の影響により赤外強度が理論値から大きく変動することが多い。しかし、これら倍音、結合音、フェルミ共鳴を含めて赤外スペクトルを再現するための理論が不完全である。第4は、未知化学種の同定においては実測の赤外スペクトルを与えるような候補分子について赤外スペクトルを理論計算する必要があるが、現状では無数の化学種の中から候補分子を探索する方法がないことである。このような諸々の問題を考えると、緒言で記したような理論的方法によって赤外スペクトルから未知化学種を同定することは現状ではきわめて困難であると結論できる。

4 結論

振動スペクトルの理論的解析法として非経験的分子軌道法がどの程度実測スペクトルを再現できるかを検証するために、ジクロロメタンの3種類の分子CH2Cl2、CHDCl2、CD2Cl2の各9個の振動についてGAUSSIAN94プログラムを用いて振動数と赤外強度を計算した。6-31GからAUG-cc-pVQZに至る33種類の基底関数と、RHF、B3LYP、BLYP、BPW91、MP2(Full)の5種類の計算法、合計165種類の計算法の中から気相分子の振動数と赤外強度の実測値を最もよく再現する計算法を探索した。その結果、計算値に対してscale factorを用い、振動数についてはMP2/6-311G(3df,3pd)を用いれば相対誤差0.93%で実測値が再現できること、赤外強度についてはMP2/ D95(3df,3pd)を用いれば相対誤差22.9%で実測値が再現できることが分かった。しかし、これらの理論計算にもとづいて赤外スペクトルを解析するには現状では課題が山積していることが分かった。

参考文献

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