温度上昇による結合長の伸びと反応開始温度の相関の評価
大塚 輝人
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1 はじめに
自己分解性の化学物質を扱う際に,温度管理を適切に行うことは安全管理にとって非常に重要である.特に分解が発熱的に起こる場合,火災爆発に至る事例は枚挙にいとまがない[1].したがって,貯蔵時や輸送時に温度変動が伴う場合,事前に反応を開始する温度を評価することが求められる.また,昨今のグローバル化を受けて,化学物質の利用・管理についても国際協調が重視されつつある.GHS (The Globally Harmonized System of Classification and Labelling of Chemicals: 化学品の分類および表示に関する世界調和システム) [2]は,その名が示すとおり,これまで世界各国が行ってきた化学物質に関する分類・表示を一元化することを目指した国際的な取り決めである.現在多くの化学品の製造販売に関与する会社が順次GHSへの対応を進めているが,GHS内の文言にあるとおり,"すべてについて個々に規制することはいずれの機関にとっても不可能である(1.1.1.1)".そのため,事前予測は今後ますます重要になってくる.また,先ごろ化学物質審査規制法の改正案が対象物質を広げる方向でまとまったことを受けて,必要となる情報量も飛躍的に増大すると考えられる.
一方,分子の性質の事前予測法として,近年の計算機の速度の向上,メモリの増加を受けて量子化学計算が比較的容易に利用できるようになってきている.これまでの量子化学計算に基づいた反応開始温度の評価についての研究では,平衡核間距離における電子雲の特性や,結合長,反応熱等を利用した評価が多く,温度上昇という動的な背景は反映されがたい.単分子の熱分解であれば,その反応開始の引き金は温度上昇そのものに他ならず,温度上昇により分子自体に与えられるエネルギーは,その大きさを考えれば電子状態に対してではなく,核の運動,すなわち回転と振動に蓄えられるはずである.また,直接分解反応経路を用いて活性化エネルギーを算出するアプローチもあるが,計算負荷が重く,多原子分子においては経路の決定も容易ではない.
本稿では,より簡単に多原子分子の自己分解反応の評価を行う第一歩として,その分解反応が良く研究されているNitrobenzeneの1置換体[3, 4]に対して,調和振動子近似による分子の基準振動の温度励起を踏まえた上で,温度上昇に伴った開始反応に寄与するbenzene環とnitro基との間の結合長の伸びと反応開始温度の相関について報告する.
2 理論
Born-Oppenheimer近似の下,N個の原子からなる分子内の原子核についてのHamiltonianは,平衡核位置におけるポテンシャルを二次微分までで打ち切ることで,

となる.この式で,xは核位置,yは平衡核位置を表す,3Nの次元を持つベクトルで,Mは原子の質量を対角項に持つ行列,すなわちi番原子(iは0~N-1)の質量をmiとすれば,Mi,j = m[i/3] di,j([ ]はGauss記号,di,jはKroneckerのデルタ)である.i番原子の核位置は(x3i, x3i+1, x3i+2)とする.Fは平衡位置におけるポテンシャルの二次微分行列で,対称行列としてとれることから,M-1/2F M -1/2も対称行列とすることができ,unitary変換によって対角化することができる.このunitary変換を行列Uで表わし,m番固有値をwm2とするとき,変数変換

により,(1)から作られるSchrodinger方程式は変数分離可能な形となる.このunitary変換が基準振動のモードを表し,wmはその振動数となる.この時,並進と回転については固有値0の変数変換として除くことができるため,mは非直線分子について0 ~ 3N-7の範囲の値をとるものとすることができる.
さらに変数変換

を重ねることで,Schrodinger方程式は調和振動子の標準形となり,その解となる波動関数はHermit多項式とGauss関数の積で与えられる.今,FAを振動量子数の組A = ( a1, a2,..)の状態の規格化された波動関数とする時,p番原子と,q番原子との核間距離の二乗平均を計算すると

となる.第一項は平衡核間距離の二乗であり,第二項が注目すべき結合の伸びである.ここで,分子振動に関する分配関数[5]

を利用して温度Tにおける(4)の第二項の統計平均を計算することで,各温度での結合長の伸びの二乗平均を評価すると,

となる.(6)式から,unitary変換と原子の質量,及び基準振動の振動数さえ分かれば任意の温度における結合長の伸びが評価できる.
3 結果と考察
(6)式の結果では内部回転の自由度について考慮されていないため,本研究では,多原子分子であり,内部回転が少なく,分解開始反応がほとんど同一で,種類が豊富な分子として,Nitrobenzeneの1置換体を対象とした.Nitrobenzeneの1置換体の内o-置換体は分子内反応もしくは立体的な効果[3, 6]があるため除外し,残ったp-置換体とm-置換体の内,m-置換体に絞って計算を行った.反応開始温度については,データの豊富なDSC(Differential Scanning Calorimetry)の熱流量曲線[7]に,恣意性のない開始温度を求めるための解析手法[8]を適用した結果を用いた.DSCは,数 mgの試料を金属製の容器に入れ,ある速度で昇温させた時に,どのような熱流が試料から流出流入するかを測定する装置である.装置の概略図をFigure 1に示した.DSCは比較的短時間で反応開始温度及び反応熱量を測定することができ,物質の危険性評価の始めのスクリーニングに広く利用されている.対象とした分子名,置換基,反応開始温度をTable 1に示した.

Figure 1. A schematic view of the Differential Scanning Calorimeter.
Table 1. A list of the substitution products of nitrobenzene.
| Name | Substituent | Onset temperature(C deg) |
| Nitroacetanilide | NHCOCH3 | 321 |
| Nitroacetophenone | COCH3 | 278 |
| Nitroaniline | NH2 | 303 |
| Nitroanisole | OCH3 | 334 |
| Nitrobenzaldehyde | CHO | 243 |
| Nitrobenzamide | CONH2 | 345 |
| Nitrobenzoic acid | COOH | 328 |
| Nitrobenzoic acid methyl ester | COOCH3 | 359 |
| Nitrobenzyl alcohol | CH2OH | 280 |
| Nitrocinnamic acid | CHCHCOOH | 288 |
| Nitrophenol | OH | 307 |
| Nitrophenylacetic acid | CH2COOH | 225 |
| Nitrotoluene | CH3 | 332 |
平衡位置におけるポテンシャルの二次微分行列を求めるためには,電子状態を計算する必要がある.始めに,その電子状態を記述するための計算方法及び基底関数系の影響について考察する.

Figure 2. The partition function of the molecular vibration calculated with various basis sets and experimental data.
Figure 2に示したのは,米国NISTのComputational Chemistry Comparison and Benchmark Data Base (CCCBDB) [9]で公開されているNitrobenzeneについて各々の基底関数でB3LYPの密度汎関数法を用いて計算された基準振動の振動数を,CCCBDB内のscale factorを利用してscaleした上で,ゼロ点エネルギーを考慮しない分子振動に関する分配関数Q = P (1 - exp(-hwm/kT ) )-1 [5]を100 °Cから400 °Cまで計算したものである.なお,ここではCCCBDB内でnitro基の回転に帰属されているモードについては計算に入れていない.
CCCBDBにはKuwaeとMachidaによる実験値[10]や,半経験的分子軌道法のPM3 [11]の結果も掲載されている.実験値と計算値の相関係数を計算してみると,6-311G*が0.99903で最も高く,PM3は0.99487で最も低いが,これは大きな違いと呼べるほどではない.Figure 2を見てわかるとおり,分配関数はSTO-3Gのみ大きく外れたものとなるが,他の基底関数はPM3を含めて大きな違いはない.分配関数について最も実験値に近いのは6-31Gであった.
Figure 3に気体定数をRとして,

で表わされる分子振動のエントロピー[5]について示したが,こちらを見てもSTO-3Gのみが大きく外れているだけで傾向は変わらない.そこで,以降は計算負荷の最も軽いPM3を用いて計算を行った.なお,計算には千田により提供されているPublic Domain版のMopac7.02のLinux/Cygwin対応のrevised versionを用いた[12].

Figure 3. The entropy of the molecular vibration calculated with various basis sets and experimental data.
Figure 4はDSC測定を行った温度帯として0 °Cから400 °Cについて,(6)式に基づきbenzene環とnitro基の結合長の伸びの二乗平均を計算し,縦軸にその平方根,横軸に温度をとってプロットしたものである.ここでは開始反応としてnitro基のラジカル脱離,もしくはnitro基の異性化を想定している[13].各々の分子についてPM3を用いて平衡構造を計算した上で振動解析を行い,その結果を利用して計算した.計算ではPM3同士での比較であるため,振動数のscaleは行っていない.共役系の分子であっても平衡構造については特に制約を付さずに計算を行った.また,置換基の種類によっては,いくつかの内部回転が発生するため,算出された基準振動モードの中で,振動数が低く,明らかに置換基の,あるいは置換基内の回転と思われるモードは除いて,(6)式のmについての和をとった.内部回転に帰属されうる自由度の数は,置換基の構造から容易に計算でき,除く振動モードの数はその自由度を超えないようにした.したがって,全ての内部回転を排除できているわけではなく,振動-内部回・#093;の相互作用が不可分なものが含まれている.それでも温度の上昇にともない,振動が励起され徐々に結合長が伸びていくことが分かる.計算した温度範囲では,異なる分子で結合長の伸びの順位が変わるようなことはなく,どの温度でも結合長の伸びに関して分子種の序列は変わっていない.このことから,計算した範囲の温度において,結合長の伸びの定性的な傾向が変わらないことが分かる.

Figure 4. C-NO2 bond elongations of the substitution products of nitrobenzene.
横軸に反応開始温度を,縦軸に全ての分子で分解反応がほとんど起きていない温度として150 ℃を選んでbenzene環とnitro基の間の結合長の伸びをとってプロットしたものがFigure 5である.得られた散布図は大きく分散し,一見何の相関も見てはとれない.しかし,置換基側に共役性がないものを選んで見てみれば,反応開始温度と結合長の伸びとには負の相関があることが分かる.特にNitroanisoleとNitrotolueneの組,NitroanilineとNitrophenolとの組については,各々が反応開始温度の近い物質同士であるが,結合長の伸びもそれぞれの組でほぼ同じ大きさになったことは注目に値する.

Figure 5. C-NO2 bond elongation and onset temperatures.
共役系の置換基ではその構造最適化が問題となっていることはもちろんであるが,置換基側が共役している場合,その影響は電子の非局在化によりnitro基側にまでおよぶ.その結果,benzene環とnitro基の間の結合に大きな影響を与えるので,精密な計算がより一層必要となる.
本研究では,核位置に関するポテンシャルを二次で打ち切り調和振動子近似を用いた上で,結合長の伸びとしてその二乗平均値を評価した.三次以上のポテンシャル項を評価すれば,そのポテンシャルの非対称性から一次の平均位置に関する期待値を計算することができるようになる.導入された高次ポテンシャルについては,本研究で用いた調和振動子の波動関数のような適当な基底関数系で摂動展開することによりエネルギー準位を計算することができる.しかし,高次のポテンシャルを考慮して得られる振動のエネルギー準位は,調和振動子のように等間隔とはならないため,そこから計算される分配関数を利用した核の平均位置は,(6)式に示したような簡単な形とはならず,個別に計算する必要がある.また,伸びとして核位置の平均を採用した場合,古典描像から類推されるような,ポテンシャル井戸からの脱出の議論に必要な運動エネルギーの評価がなされないことにも注意が必要である.
4 おわりに
非常に粗い計算であるが,単一分子内での同種の分解反応について,結合に対して結合長の伸びと反応開始温度の間に相関があることを示した.分子間相互作用,内部回転の影響,非経験的分子軌道法の適用,調和振動子近似を超えた取り扱い,振電相互作用,分子回転の影響等考慮すべき高次の問題は多く存在するものの,容易に同種分子について分解開始温度についての予測が可能であると考えられる.この予測手法によれば,実際の分子を合成せずに事前評価することが可能であり,また,実在の分子について反応性をいかにして高めるか,あるいは低く抑えるかについての指標を与えることができる.
半経験的分子軌道法の利用に際し,多くの事例紹介と示唆をいただきました早稲田計算化学コンソーシアムの森和英先生に感謝いたします.先生のご冥福を心よりお祈りします.
参考文献
[ 1] Riscad,
http://riodb.ibase.aist.go.jp/riscad/index.php
失敗知識データベース
http://shippai.jst.go.jp/fkd/Search
等
[ 2] http://www.env.go.jp/chemi/ghs/
[ 3] 原泰毅,松原宏之,長田英世, 工業火薬協会誌, 38, 338 (1977).
[ 4] 藤本康弘, 産業安全研究所研究報告, NIIS-RR-94, 79 (1995).
[ 5] K. K. Irikura and D. J. Frurip, Computational thermochemistry, American Chemical Society (1998).
[ 6] 森崎繁,安藤隆之, 産業安全研究所安全資料, RIIS-SD-88 (1989).
[ 7] 森崎繁,安藤隆之, 産業安全研究所安全資料, RIIS-SD-87-1 (1988).
[ 8] T. Otsuka, Asia Pacific Symposium on Safety 2007, 19-22 (2007).
[ 9] http://cccbdb.nist.gov/
[10] A. Kuwae and K. Machida, Spectrochimica Acta, 35A, 27 (1979).
[11] J. J. P. Stewart, J. Comp. Chem., 10, 209 (1989).
[12] http://winmostar.com/mopac.html
[13] 佐々木達也, 阿久津好明, 新井充, 田村昌三, 火薬学会, 60, 220 (1999).
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