計算化学の将来像 −化学反応のオンラインシミュレーションに向けて−

日本電気株式会社 システムデバイス・基礎研究本部
高田 俊和

1.1. 分子シミュレーションへの期待
 過日、スーパーコンピュータのハードウエアを開発している研究者と話をしたときのことであるが、バイオインフォマティクス、もう少し正確に言えば、生体高分子シミュレーションはHPCの最後のフロンティアと思っていると言っていた。地球シミュレータの開発が進み、2002年初頭には40TFLOPSのコンピュータが出現し、気象という視点から地球環境の問題が議論されることになる。一方、ヒトゲノムプロジェクトの完了に伴い、プロテオミックスの時代が到来すると早くも期待感が高まっている。タンパク質同士の相互作用やその反応機能が解明されれば、医療や創薬の分野で途方も無い市場が形成されるとの予測から、ベンチャーを初め多くの企業が参入を開始している。IBMでは、Blue Geneと呼ばれる1PFLOPSのコンピュータを2005年までに開発し、タンパク質のフォールディングシミュレーションを行なうと発表している。このような時代的背景を受けて、生体分子シミュレーションへの期待が日々膨らんでいる中で、量子化学者はこの期待に応えるため何をすることができるだろうか。この点について、プログラム開発というソフトウエアの視点から最近感じていることを議論してみたい。

2.計算スキームと並列分散処理
 図1に、分子軌道法と分子動力学の役割と、相互関係を示した。一言で言えば、図の右側に示されたサイクルを繰り返し計算すれば、断熱近似の下で化学反応のシミュレーションを行なうことができる。もし、この1サイクルを30分の1秒で処理し、結果をコンピュータグラフィックスで連続的に表示できれば、化学反応をあたかも顕微鏡で覗いているように観察できるシステムを開発することが可能である。この分野は非経験的分子動力学と呼ばれているが、このようなシミュレーションシステムを、情報処理振興事業協会が1996年から2ヵ年実施した「創造的ソフトウエア育成事業」において、「バーチャルマイクロスコープに関する基礎的技術開発」と題し実際開発した。成果のプログラムは、産業基盤ソフトウエア・フォーラムを通じて、希望者に無償で配布もされている。残念ながら、非経験的分子軌道法に基づいて原子核に働く力を繰り返し計算することになるので、数原子からなる系の反応トラジェクトリをオンラインシミュレーションで表示するのが今の所限界である。しかしながら、ここで強調しておきたいことは、このプロジェクトにより、本講演のテーマである計算化学の将来的イメージを既に提案できていることである。温度、圧力など実験条件に相当するパラメータをシミュレーションの進行と共に変え、その効果をディスプレイ上で観察しながら反応メカニズムの考察を行なう。これが、計算化学の究極の姿であろうと考えており、その実現に向けてコンピュータ利用技術の確立を含め、様々な要素技術の開発に努力している。もし、生体高分子にも適応できるバーチャルマクロスコープができれば、分子生物学における重要な研究ツールになることは間違いないと考えている。
 近年、ハードウエアの性能向上は周知の如く著しく、数年前はベクトル型コンピュータでしか実現できなかった実行性能をスカラー計算機で容易に達成しつつある。しかしながら$何れのアーキテクチャにしても1CPUの性能向上には限界が見え始め、ここで議論しているような生体高分子の計算には、並列分散処理への対応が避けて通れない課題となっている。表1に、NEC量子化学グループの開発した非経験的分子軌道計算システムで測定した並列性能の結果を示す。基本的な並列アルゴリズムは、2電子積分が相互に独立なので、2電子積分の計算を多数のプロセッサに分散し、部分的なFock行列を計算しておき、全てのプロセッサでの処理が完了した段階で、これらの不完全なFock行列をマスタープロセッサにギャザリングし、対角化するというものである。使用したコンピュータは、スカラー型並列コンピュータCenju−3/128である。
このように、各プロセッサが分担する2電子積分の計算に必要な浮動小数点演算に比べて、プロセッサ間での通信量は相対的に極めて小さく、所謂粒度の大きな並列化が実現されている。詳細に触れるゆとりは無いが、これまでの経験から、非経験的分子軌道法は本質的に並列分散処理に適しており、今後現れてくるだろう数千台規模の並列コンピュータでも十分その性能を発揮できるものと期待している。

3.インターネットへの対応
 計算化学の将来像を語る上で、インターネットの利用をはずすことはできない。インターネットをベースにしたビジネスとして,APS(Application Service Provider )と呼ばれるものがある。シミュレーションを対象とした場合では、アプリケーションプログラムやスーパーコンピュータなどによる計算環境の整備、計算遂行に関わるコンサルテーションなどが、その業務と考えられる。ユーザは、ノートパソコンからインターネットを介してこれらのコンピュータを使い、計算結果もグラフィックス画像として表示する。このような利用形態の利点は、
  1. 計算を始めるに当たり、ハード及びソフトの購入などの初期投資が不要で、研究者はインターネット上で目的に合ったシステムを探し出し、利用した時間に応じて料金を払えばよく、経済効率が高い。
  2. 研究者は、自分のパソコン上のブラウザを介してのみコンピュータにアクセスするので、スーパーコンピュータの使い方を覚える必要がなく受け入れやすい。
  3. センター管理のコンピュータの更新においても、使い方に関する変更はブラウザが吸収するので、使い方が変わることはない。
  4. 複数の研究者が同時にインターネットを介してアクセスし、計算結果の解析をブラウザ画面で見ながらオンラインで行なうことができる。
  5. 携帯できるパソコンと電話があれば、何処からでも計算を行なえる。 などである。図2に、インターネット環境下での分子シミュレーションのイメージを示す。研究者は、ブラウザに示されている接続可能なコンピュータの中から、空き具合、課金などを勘案して選択し、後は全て自分のパソコンとの会話のみでシミュレーションが実行されることになる。もし、ギガビットの回線が普及すれば、これまで述べてきたオンラインシミュレーションがインターネット環境で実現されることになる。

 量子化学者が分子軌道計算のプログラムを自分だけで開発していた時代は終わり、最新のハードウエアに順応したプログラムを開発するには、MPIなどの並列分散処理技術を有し、ネットワーク通信に長けたコンピュータサイエンティストの協力が不可欠である。ビジネスという観点から見た場合、日本製のプログラムで成功した例はないと言われている。計算化学の分野を見ても、その状況に変わりはなく、もし多くの研究者が期待しているようにシミュレーションが産業活動における基盤技術のひとつになるとしたら、これは由々しき問題である。量子化学者、応用数学者、コンピュータサイエンティストが相互に協力し合い、世界をリードする分子シミュレーションプログアムが日本で開発されることを期待したい。

BACK