ユニークな働きを示す分子の創造と化学ソフトウェアの役割

ユニークな働きを示す分子の創造と化学ソフトウェアの役割
－新しい機能性色素の開発を例として－

埼玉大学工学部応用化学科　時田澄男

新しい機能性色素を開発するにあたり，分子設計の考え方の重要性が各方面から注目を集めている．そこで，色素化学の発展の過程において，分子設計思想がどのようにして芽生え，育ってきたか，また，将来に対する課題は何かという点に焦点を当てて概観してみたい．

１．色素化学のルーツ

　天然の染料は，人類の生活に古くから利用されてきた．古代エジプトの遺跡からは，藍や茜を用いて染色した布が出土しているし¹⁾，我が国でも，正倉院宝物の繍仏（色とりどりの刺繍で仏像もしくは仏教的主題を表したもの）などに，色素の高度な利用の面影を認めることができる²⁾．1856年，イギリスのパーキン (W. H. Perkin) は，アリルトルイジンからキニーネを合成しようと試みた．この試みは成功しなかったが，その過程で赤紫の色素が生成し，絹や木綿の染色に使えることを発見した．これが，有機合成化学の手法によって誕生した最初の染料（モーブ）である．その実物は，ロンドンの科学博物館などに現在でも保存されている．モーブの構造は，電子スペクトルの測定³⁾ などから，式 (1) の様に推定されていたが，カラムクロマトグラフィーで分離精製し，¹H および ¹³C-NMR を測定する研究が最近なされ, 主成分は，(1) ではなく, (2) と (3) の混合物であることが確認された⁴⁾．モーブの合成は，アニリンとトルイジンの混合物の酸化により再現することができる⁵⁾．

２．有機合成化学工業の発展と分子設計思想の芽生え

　上記の染料は，はじめはアニリン・パープルと呼ばれた．パーキンはその工業化と染色法の改善に取り組み，染料の名称もモーブ（または，モーベイン）と改称されて一世を風靡した．この発見を契機として，さまざまな合成染料がつぎつぎと開発され，染料工業が産業の重要な分野を形成した．パーキンが「化学工業のパイオニア」と呼ばれる所以である^5a)．やがて，染料ばかりでなく，顔料も有機合成の手法で得られるようになり，またたく間に多種多様の新しい色素が登場した．
　このような背景の下で，色素の構造と色の関係を整理して，所望の色調を有する染顔料を設計しようという考え方が芽生えてきた．いろいろな学説の中で，1876 年に発表されたウィット(O. N. Witt) の発色団・助色団説は，特に有名である⁶⁾．

３．経験的分子設計から理論的分子設計へ

　前節の分子設計概念は化学反応の試行錯誤を減少させるのに有効で，合成経路の決定にも利用された．しかし，これらの概念は多くの経験的知識から直観的に得られたものであり，便利に利用できる反面，誤った結論を導いてしまう場合もあった⁷⁾．現在では，量子化学の基本原理から理論的に導かれる分子設計手法が一般化している¹⁾．具体的には，PPP, CNDO/S, INDO/S 法などの分子軌道法が良く用いられている⁸⁾．

４．インジゴの合成

　パーキンのモーブは，古代より貴重とされた天然染料チリアン・パープルに似た赤紫色の染料であったために，人々から広く受け入れられた．特に，フランスで人気があったということである．しかし，耐光性等に問題があり，現在は製造されていない．
　天然染料の中で，世界中で最も広く用いられてきた色素は，藍などからとれるインジゴである．インジゴの構造 (4) は，バイヤー (A. von Baeyer) によって決定され，工業的製法はホイマン (K. Heumann) によって見出された（1890 年) ．インジゴの工業生産が始まると，天然の藍による染色産業はほとんど完全に駆逐されるという革命がもたらされた．ツォリンガー (H. Zollinger) は，インジゴの合成を，19世紀における色素化学の最も偉大な業績と位置づけている⁹⁾．

５．インジゴの発色系

インジゴはその分子構造が簡単であるにもかかわらず，可視光の長波長部を吸収して青色を呈する．この理由は，従来の経験的な色と構造の理論からは，どうしても説明がつかなかった．このため，バイヤーの構造式 (4; 初期には，cis 型が提案されていた) は誤りでは

ないかという議論がたびたび繰り返された程である．X 線結晶構造解析の結果は 1928 年になってようやく報告され，現在の trans 型構造が確定している．
　インジゴの発色系は，分子軌道法計算によって，初めて明らかにすることができる¹⁰⁾．表１から判るように，インジゴの２つのベンゼン環を２つの二重結合に変えたモデル化合物 (5) は，PPP 分子軌道計算によって，インジゴ (4) とほとんど同じ吸収極大を示す．(5) の二重結合を除いた (6) についての計算値も，(4) と比較した吸収極大波長の変化は高々 100 nm である．したがって，インジゴの発色系の基本骨格は，式 (7) に示すように，電子を与える基 (D; ドナー) と，電子を受け入れる基 (A; アクセプター) が H 型に結合したユニットであることがわかる．ドナーとアクセプターが１つづつの式 (9) のモデルでは，インジゴ (4) に比べて計算値が 300 nm も短波長にシフトしてしまうので，(9) はもはやインジゴの特色を表すモデルとはいえない．　これらのモデルに対応する化合物 (5)，(6)，(8) を合成して電子スペクトルを実測すると，表１の結果が得られ¹¹⁾，計算結果の正当性が裏づけられる．このように，PPP 法を活用することにより，インジゴの発色系は基本的には (7) で，ベンゼン環は補助的な役割しかはたしていないことが，理論的にはじめて明らかにされた．式 (7) の発色系をその形から H 型発色系，また，共役理論との関係から交叉共役系という．

６．交差共役系の色素とその類似体

　最も高価な天然染料であったチリアン・パープルは，インジゴの 6,6' ジブロモ誘導体の構造を持つことが明らかにされた．この歴史的な染料も交叉共役系の分子であることは興味深い．

表１．インジゴ (4) とその基本ユニット (5)，(6)，(8) の吸収極大 (nm)

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Compd.	     (4)       (5)       (6)       (8)
-----------------------------------------------
obs.         588       529       487       285
calc.        579       561       477       279
-----------------------------------------------

　キナクリドン (10) は，赤色顔料として，1960 年代の色材工業界に最大の話題を提供してきた¹²⁾．キナクリドンは，インジゴ (4) の中央の二重結合をベンゼン環で置き換えた構造を持つ．PPP 分子軌道法計算によれば，(11) は，(10) よりむしろ長波長の吸収極大が予測されることから，キナクリドンの基本的な発色系は (11) であることがわかっている⁶⁾．実際，ジメチルスルホキシド中，(10) は，523 nm に，(11) は 528 nm に吸収を与える⁶⁾．キナクリドン (10) は，厳密な意味での交叉共役系化合物ではないが，その構造化合物的特徴はインジゴと類似点が多い．
　キナクリドンと同じ五環の縮環系に，トリフェノジオキサジン (12, X=O) や，トリフェノジチアジン (12, X=S) がある．これらも式 (7) に関連する基本骨格を有している．　式 (13) で表されるピロロピロール類は，最近登場した新しい骨格を有する堅牢な赤色顔料である¹³⁾． (13) は，分子骨格がきわめて小さいにもかかわらず長波長の吸収を与える．これは，(13) がインジゴに類似した H 型発色系を持つためであることが，PPP 分子軌道法によって確かめられている¹⁴⁾．

７．機能性色素とその設計

　機能性色素 (functional dye) というのは，従来の染料や顔料のように，着色剤としての機能以外の機能を有する色素群に対して与えられた呼称である^{1, 15)}．リーズ大学 (イギリス) のグリフィス (J. Griffiths) は，機能性色素をハイテク色素やスペシャリティー色素と区別する基準について，次のように述べている¹⁶⁾．たとえば，ローダミン 6G という色素は，紙の着色剤として従来の顔料としての用途のほか，蛍光顔料としても使われる．後者は，スペシャリティー色素の例となる．しかし，これら２つの場合は，ハイテク色素にも機能性色素にも該当しない．ところが，同じ色素を高度に精製してレーザー色素として用いれば，これは機能性色素としての用途に該当する (もちろん，ハイテク色素にも該当する) ．グリフィスは，このような考察から，機能性色素に対して次のような定義を与えることを提案している．
『機能性色素とは，電子の励起によって電磁波が吸収される電子構造を持つ分子のうち，その機能性が，このような特別の電子の性質に直接関連するものである』
　この定義によれば，赤外線や紫外線を吸収する性質を持つ無色の物質も機能性色素の範疇に含まれることになる．
　現在では，この定義に含まれる多様な色素群，たとえば，フォトクロミック化合物，ピエゾクロミック化合物，ハロクロミック化合物，サーモクロミック化合物，有機非線形光学材料，電荷輸送層材料，近赤外吸収色素，蛍光性色素，高スピン有機分子など，多種多様な色素について，理論的手法にもとづく分子設計が試みられている¹⁷⁾．

８．新しい機能性色素の開発と分子軌道法

　最近，PPP 分子軌道法を，新しい分子骨格の探索に利用する動きがさかんである．たとえば，式 (14)¹⁸⁾，(15)，(16)¹⁹⁾ などの分子骨格が提案されている．いずれも，交叉共役系の特徴である「小さい分子で長波長の吸収」を示すことが計算により予測され，実際に合成されてその正当性が確認されている．
　松岡らは，交叉共役系の分子 (17) の種々の誘導体を合成し，その電子スペクトルが溶液中と固体薄膜上で 100 nm 以上も大きく異なるものが存在することを見いだした²⁰⁾ ．従来より，交叉共役分子 (4) や (13) では，固体と溶液のスペクトルの相違が指摘され，分子内と分子間の水素結合様式のちがいに基づくものと考察されている．松岡らは，分子 (17) のX線結晶構造解析の結果を含め，PPP 法や，ab initio 分子軌道法によってこれらのスペクトルシフトの原因を検討するとともに，非線形光学材料への応用を企図して研究を進めている．
　PPP 法を別の角度から利用する試みとして，蛍光スペクトルに関連する Stokes シフトの予測計算がある．この方法は，古くから炭化水素系化合物に適用されてきた²¹⁾．Graz 大学の Fabian は，この方法をヘテロ原子を含むクマリン等に適用しうるように改良した²²⁾．これは他の色素骨格にも試用され，適用範囲についての検証がなされつつある²³⁾．また，同様の手法で，吸収帯の幅を予測するプログラムも開発されている^{24, 25)}．これらの方法は，INDO/S 法26) や ab initio 法²⁷⁾ による蛍光スペクトルの予測計算に比べ，計算が非常に単純なので，実用面での展開が期待されている²⁵⁾.

９．これからの色素化学

　冒頭で述べたように，染料には古い歴史がある．そのような長い歴史の中で見れば，合成染料の登場は比較的新しい．しかしながら，有機合成化学の歴史という視点では，最も古いものに属する．それでは，色素化学の分野は研究し尽くされたかかというと決してそうではない．ピロロピロール (13) のように，これまで全く未知であった新規骨格が発見され，有用な顔料として用いられていることがその証拠である．化合物 (13) はその誘導体も種々合成され，塗料，印刷インキ，プラスチックや合成繊維向けの用途ばかりでなく，電子写真材料，光記録材料，エレクトロルミネッセンス材料，エレクトロクロミズム材料などの用途も検討されている¹³⁾．
　染顔料を機能性色素という観点から見るとき，吸収スペクトルばかりでなく，イオン化ポテンシャル，電子親和力，双極子モーメント，遷移モーメント，偏光，蛍光，超分極率，化学反応性などの諸量がその開発指針となる．種々の理論計算の手法を用いると，これらの諸量の予測も可能である17)．新しい素材の開発には，セレンディピティと力まかせの合成の繰り返しばかりにたよる時代ではない．ペンと紙と，創意工夫の心がけに加えて，最新のコンピューターがあれば，経験的知識だけにたよるよりも，ずっと多くのことが，はるかに安価に達成できる²⁸⁾．
　福井は，ノーベル賞受賞講演で，『経験化学を理論面から推進すること』を，量子力学のひとつの重要な役割と述べている²⁹⁾．これは，主として有機反応のメカニズムの研究を通して導かれた主張であるが，ツォリンガーによれば，このことは，色素化学の研究にも全く同様にあてはまる⁹⁾．
　最近，日本化学会の研究会として，理論化学者と実験化学者の連携を唱った２つの研究会が相次いで発足した．１つは，量子有機化学研究会（会長：藤本博京大教授），もうひとつは，高精度分子設計研究会（会長：西本吉助大阪市大名誉教授）である．その後，理論化学研究会（平尾公彦東大教授ら）も発足している．これらの活動を通して，理論化学の手法が実験化学者にとってますます有用な道具になることを期待したい．

文献および注

1) 時田, 松岡, 古後, 木原, "機能性色素の分子設計－－ PPP 分子軌道法とその活用", 丸善 (1989).
2) 小川昭二郎, "化学と教育", 35, 510 (1987).
3) E. Gurr, "Synthetic Dyes in Biology, Medicine and Chemistry", Academic Press, London (1971).
4) O. Meth-Cohn, M. Smith, J. Chem.Soc., Perkin Trans. 1, 1994, 5.
5) R.Robinson, J. Chem. Educ., 34, 54 (1957), 日吉芳朗, 日本化学会編 "実験で学ぶ化学の世界３- 有機・高分子化合物の化学", 丸善 (1996), p. 83.
6) J. Fabian, H. Hartmann, "Light Absorption of Organic Colorants", Springer, Berlin (1980).
7) 時田澄男, "カラーケミストリー", 丸善 (1982), p. 111.
8) 榊茂好, "第４版実験化学講座３, 基本操作Ⅲ", 丸善, p. 267 (1991), p. 267.
9) H. Zollinger, "Color Chemistry", 2nd ed., VCH, Weinheim (1987), p. 32, 38, 191.
10) M.Klessinger, W. L殳tke, Tetrahedron, 19, Suppl. 2, 315 (1963). 文献 1) と 6) にもこの件についての解説がある．なお，表１の計算値は，文献 1) のソフトウェアにより再計算したものである．
11) E. Wille, W. L殳tke, Angew. Chem. 83, 853 (1971), Int. Ed. Engl., 10, 803 (1971).
12) 西久夫, "色素の化学", 化学 One Point 15, 共立出版 (1985).
13) A. Iqbal, Proc. 2nd Int. Symp. on Chem. of Functional Dyes, Mita Press, p. 60 (1993).
14) J. Griffiths, Chem. Brit., 1986, 998.
15) 大河原, 松岡, 平嶋, 北尾, "機能性色素", 講談社 (1992).
16) J. Griffiths, Proc. 2nd Int. Symp. on Chem. of Functional Dyes, Mita Press, p. 1 (1993).
17) 日本化学会編, 季刊化学総説 "高精度分子設計と新素材開発", 学会出版センター, 1998 刊行予定.
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19) J. Sekihachi, J. Griffiths, Dyes Pigm., 32, 43 (1996).
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24) K. Wojciechowski, Dyes Pigm., 32, 199 (1996), 16, 35 (1991),
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26) A. Broo, M. C. Zerner, Theor. Chim. Acta, 90, 383 (1995).
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28) J. Griffiths, Dyes Pigm., 3, 211 (1982).
29) 日本化学会編, 化学総説 No. 38, "福井謙一とフロンティア軌道理論", 学会出版センター, (1983).