水素原子の原子軌道の可視化

時田澄男 ,渡部智博,木戸冬子,前川 仁,下沢 隆


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1. 緒言

 水素原子のSchroedinger の波動方程式は,化学や物理をはじめとする各分野で重要であり, 量子化学の導入としてコンピュータを利用する試みが,多数報告されている[1-12].
 この波動方程式は解析的に解け,水素原子の中の電子の持つエネルギーは不連続で, その状態は1電子波動関数と呼ばれる数式で表現されることが導かれる[13].量子力学では, 1電子波動関数を軌道( orbital )という.すなわち,原子の中の電子の状態を表す1電子波動 関数を原子軌道と呼ぶ.これは,太陽のまわりを地球がまわるように一定の軌跡を持つ軌道( orbit ) とは意味が異なる.このため,原子軌道の物理的描像の表現には種々の工夫が必要となる.
 水素原子の原子軌道は,1s, 2s, 2p, 3s, 3p, 3d, 4s, 4p, 4d, 4f, 5s, 5p, 5d, 5f, 5g, 6s, 6p, 6d, 6f, 6g, 6h, … などの名称で呼ばれている.これらの軌道の物理的現象を表現する 工夫としては,すでに下記の例が報告されている.
 Cromer は,両眼で立体視が可能な点画で水素様原子の電子密度を描いた[14].菊池らは, 水素原子の2p 原子軌道とその電子密度分布を,極表示,等高線表示,または 擬三次元表示で示した.また,4f軌道までの三次元等値曲面表示を示した[15].Breneman は, 水素原子の s 軌道から g 軌道までの平方に関する等値曲面表示を報告した[16].Leibl は, 1s 〜3d 軌道に対して5つの表示方法,すなわち動径表示,極表示,等高線表示,擬三次元表示, そして三次元表示のいずれかを選択して可視化できるプログラムを開発した[17].著者の一人時田は, マイクロコンピューターを利用し,種々の方法で原子軌道を可視化する方法を開発した[18]. Douglas は,原子軌道の電子密度を点画で描くプログラムを開発し,水素原子の 1s, 2s, 2p, 3s, 3p, 3d 軌道などを表示した[19].Schwartz は,水素原子の1s と2s 軌道に対する等値曲面を計算し, その切断面を表示させた[20].Cooper らは,市販ソフトウェアである“ Mathematica ”を使って そしての各軌道を表示した[21].
 このように,水素原子の原子軌道を可視化する試みは多数報告されている.しかし,複素関数である 波動関数を組み替えて実関数とする方法と,平方して実関数として表示する方法の両者を併記して 表示した教科書は無く,s 軌道からh 軌道に至る一連の原子軌道を同時に可視化して比較検討する ことは行われていない.また,EGWS ( Engineering Graphic Workstation ) をこの種の研究に 用いた例もほとんど報告されていない.本研究では,ハードウェアとしてEGWS,ソフトウェアとして AVS ( Application Visualization System ) を用いた. EGWS と AVS の組合せでは陰影を 付けた精細度の高い画像が短時間で得られる.このため,水素原子の一連の原子軌道の等値曲面を 計算して表示させる際に有用であった.また,この様にして得られた一連の図形は,原子軌道の形や 節面の相互関係などを検討する際にも有用であることが判った.

2. 可視化の手続き

2.1 Schroedinger の波動方程式
 水素原子中の原子核は電子に比べて非常に重いから原子核は静止しているとすると,この電子の 状態を記述するSchroedinger の波動方程式は,次式(1) となる[18].
………(1)
 ここで,は水素原子の中の電子の状態を表す 1電子波動関数(原子軌道), h はプランク定数, e は電気素量,m は電子の質量,r は原子核と電子との距離,E は電子のエネルギー,( x, y, z ) は 電子のデカルト座標である.

2.2 解析方法
 式(1) は,極座標に変換した後,解析的に解くことができ,エネルギー E ( eV ) として,
………(2)
また,原子軌道として,
………(3)
が得られる.ただし,上式(3) において,
………(4)
………(5)
………(6)
であり,は水素原子の原子軌道関数の動径部分,は水素原子の 原子軌道関数の角部分と呼ばれる.また,n は主量子数( n= 1, 2, …),l は方位量子数 ( l = 0, 1, 2, …, n - 1),m は磁気量子数(|m|=0, 1, 2,・・・, l )である. さらに,
………(7)
………(8)
である.
 また,はLaguerre の陪多項式
………(9)
であり,はLegendre の陪多項式
………(10)
である.
 式(6) において,はm≠0 では,複素関数であるから, 式(3) のも 一般には複素関数となる.従って,原子軌道を図示するためには,何らかの方法で実関数に変換する 必要がある.これには,次の2通りの方法がある.
(A) 波動関数を組替える方法:
 m=0 のときはは実関数ゆえ,波動関数 は実関数となるが,m≠0 のときは,波 動関数とを線形結合させて実関数とする.
………(11)
………(12)
 m≠0 のとき,波動関数の エネルギーは等しいのでこれらを規格化,直交条件の 下で線形結合した原子軌道(11), (12) は,やはり Schroedinger の波動方程式(1) の解である.
(B) 波動関数を平方して確率密度関数とする方法:
………(13)
であるから,
………(14)
は実関数となる.ここで,上式(14) は,電子の存在する確率密度関数を意味している.

2.3 可視化方法
 ハードウェアとして,EGWS IRIS INDIGO XS24Z ( シリコン・グラフィックス社 ), またはTITAN 3000 ( クボタコンピュータ社 ),カラープリンターとして Shinko Color Hard Copy CHC 345(神鋼電機) を使用した.ソフトウェアは, AVS 3 〜 5 ( 米国 AVS Inc. ) を用いた.
 水素原子の原子軌道は,Fig. 1 のフローチャートに従い,以下のプロセスで可視化した.
 (a) 三次元格子点における原子軌道関数の関数値を計算する.AVS ではこの形式のデータを フィールドデータと呼ぶ.
 (b) フィールドデータをAVS に渡し,特定の関数値に対する等値曲面を計算する.このとき, 曲面の色,陰影のつけ方,光源のおき方等を指定する.
 (c) 等値曲面をグラフィックディスプレイ上に表示し,カラープリンターに出力させる.

3. 結果と考察

3.1 原子軌道(実関数)
 2.2の方法(A)に従って水素原子の原子軌道を出力させた.
を例にして,上記2.3 (b)における関数値を変更し,等値曲面を表示させたときの関係を Fig. 2 に示した.Fig. 2 から,関数値の絶対値が大きいと等値曲面の形は小さくなり,この 絶対値が小さいと等値曲面の形が大きくなる.関数値の絶対値を大きく設定しすぎると中央の リング部分が上下のアレイ部分より先に消滅してしまう.逆に小さくしすぎるとリング部分と アレイ部分が接近するため,両者の関係が分かりにくくなる.

 従来の可視化の例として,水素原子の 7 個の 4f 軌道の等値曲面表示に関して汎用性のある プログラムを報告したが,表示に要する時間は,数日間に及ぶことがあった[13].今回,EGWS 上で AVS を利用した場合,適当な関数値を選択してから原子軌道を表示するまでに要する時間は, 格子点の数が9,261 (21×21×21) では約 4 秒, 132,651 (51×51×51) では約 1 分であった.
 関数値の絶対値を変化させる際には,格子点の数を9,261 にして検討した.最終結果は 132,651 格子点を用いて出力した.このようにして選択した1s 軌道から 6h 軌道までの原子軌道の関数値を Table 1 に示す.関数値が正のときをオレンジ色,負のときを黄色として表示した.結果を Fig. 3 に示す.1s 軌道から 6h 軌道の原子軌道を表示して節面の型の規則性を明確に定式化した 報告はない.

  Fig. 3 において,軌道胞( lobe : 等値曲面で囲まれた閉曲面)の数について調べると,
 (a) 磁気量子数の絶対値|m|を一定とすると,方位量子数 l の増加とともに,軌道胞の数が 規則的に増加する.

 Table 1 Appropriate function values to represent atomic orbitals of the hydrogen atom ( 1au=0.5292Å )


     orbital     function value
                     au-1.5
      1s             0.0400
      2p             0.0260
      3d             0.0093
      4f             0.0045
      5d             0.0020
      6h             0.0015

 (b) 方位量子数l が一定のとき,磁気量子数の絶対値|m|の増加とともに軌道胞の数が規則的に 減少する.この関係を数式で表せば,
 m=0 のときは,

  軌道胞数=l +1  ………………… (15)

 m≠0 のときは,

  軌道胞数={(l +1) -|m|}×2|m|………………… (16)

である[16].

 次に,原子軌道の節面( node : その両側で原子軌道の符号が変化する面.すなわち, 軌道関数の値が 0 となる面 )について調べると,
 (c) ( n, l, m )=( n , n-1, n-1)のとき,すなわち,( n, l, m )=( 1, 0, 0), ( 2, 1, 1),( 3, 2, 2),( 4, 3, 3),( 5, 4, 4),または,( 6, 5, 5)のときは, 平面型の節面がそれぞれ l 個しか存在しない.
 (d) ( n, l, m )=( n,n -1, 0)のとき,すなわち,( n, l, m )=( 1, 0, 0),( 2, 1, 0), ( 3, 2, 0),( 4, 3, 0) ,( 5, 4, 0),( 6, 5, 0)のときは, l が偶数の時は曲面型の節面が l 個あり,l が奇数の時は中央の節面が平面型であり,残りの( l - 1) 個は曲面型の節面である.
 (e) 上記,およびそれ以外の系( l= n-1 のすべての系 ) に共通する規則は,以下のようにまとめ られる.
 平面型の節面が 個, 曲面型の節面が個である.ただし, はガウスの記号で,xを越えない整数のうち最大の値を表す.

3.2 存在確率密度
 2.2 の方法(B) に従って,水素原子の電子の存在確率密度関数を出力させた.結果を Fig. 4 に示す.

 電子の存在確率密度は必ず正の値となるので,全てオレンジ色で表示されている.また,波動関数を 平方することによって,に依存しない電子の存在確率密度関数となるので,Z軸(上下方向)のまわりに 対称の形となる.
 また,この一連の図における軌道胞の数は,
 (a) 磁気量子数の絶対値|m|を一定とすると,方位量子数 l の増加とともに,軌道胞の数が規則的に 増加する.
 (b) 方位量子数 l を一定とすると,磁気量子数の絶対値|m|の増加にともなって,軌道胞の数が 規則的に減少する.これを数式で表せば,

   軌道胞数 = (l +1) -|m| ………………………… (17)

となる.
 次に,関数の値が 0 となる面の数は,

   面の数 = l -|m| ………………………… (18)

である.また,この面の数が偶数の時は曲面型のみであるが,奇数の時は中央に平面型が一つ存在し, 他は曲面型である.

  3.3 表示方法の相互関係
 Fig. 5 の3d 軌道を例とし,Fig. 3Fig. 4 の相互関係を説明する.

 |m|= 0, 1, 2 のそれぞれの組は,下段は Fig. 3,上段は Fig. 4 に対応する.下段は 実関数の値が,上段は複素関数の平方がとなる等値曲面である. 一般に,下図に示した原子軌道の図がよく使われている.各々の上図を,Z軸を含む|m|個の節面で 等間隔に分けた関数が下図に相当している.このとき,|m|個の節面で切断する方法が無数に存在し, これは縮退しているを線形結合させる数式が無数に存在することに対応している.

4. 結論

 これまで,水素原子の1s〜 6h 軌道に至る原子軌道を高精度,かつ短時間に可視化することは 行われていない.しかし,EGWS と AVS の組み合せを用いることにより,一連の原子軌道の描像を 精度良く描くことができた.このため,原子軌道の形や節面などの規則性を視覚的に導くことができた.

 本研究に当たり,多くのご協力を頂いた杉山孝雄氏(埼玉大学工学部)に深く感謝致します. また,成塚章二氏(立教高等学校)からは数学的なご助言を頂いた.

参考文献

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5) Sims, J. S. and Ewing, G. E.: Experiments in Quantum Chemistry : The Linear Variation Method, J. Chem. Educ., 56 (1979) 546-550
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12) Knudson, S. K. : Direct Solution of Schroedinger Equation for Vibration via Spreadsheet, J. Chem. Educ., 68 (1991) A39-A41
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18) 時田澄男, 平成元年度科学研究費補助金(一般研究C)研究成果報告書 (平成2年3月)
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20) Schwartz L. J. : Calculating Percent Boundary Surface for Hydrogenlike S Orbitals - An Undergraduate Computer Assignment, J. Chem. Educ., 67 (1990) 504-505
21) Cooper R. and Casanova J. : Two-Dimensional Atomic and Molecular Orbital Displays Using Mathematica, J. Chem. Educ., 68 (1991) 487-488

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