ヒドロキシインドール類の重水素置換位置の計算化学的推定

松本 高利, 長嶋 雲兵, 田辺 和俊, 橋本 貴美子, 曽川 和代, 白濱 晴久


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1 はじめに

 ヒドロキシインドール類を重メタノール中に放置すると、Figure 1 に示す8つの化合物は重水素でラベル化される[1]。実験的にはFigure 1 の各化合物の矢印で示される個所が最初にラベル化される傾向が見られる。一般に重水素ラベル化位置の予測は、有機化合物のラベル化によるNMRの研究又は薬物の生体内動態を調べるためのトリチウム置換物質作成にとって極めて重要である。
 重水素置換反応の計算化学的研究のためには、水素並びに重水素が量子論的振る舞いを強く示すために、断熱近似を仮定しない計算方法による動力学的計算が必要である。残念ながら現在の計算手法や計算機資源の制限のため、ヒドロキシインドール類などのサイズの分子の量子論的動力学計算は、今のところ不可能である。そこでわれわれは、従来から広く利用されている簡便な計算化学的手法を用いて、重水素によってラベル化される置換位置の定性的な予測を行う方法を検討した。


Figure 1. The observed deuterium-labeled positions of hydroxyindole derivatives

 重水素によるラベル化の初期過程において、重水素供給分子がヒドロキシインドール類に接近する駆動力は、主としてクーロン力である。そのため、重水素置換位置の定性的な推定には、ヒドロキシインドール類の分子内の各原子の電荷分布が極めて重要であると考えられる。
 本研究では、水素置換位置の定性的な推定を行うために骨格原子の電荷分布に注目し、半経験的方法による最適化構造と最小基底を用いた非経験的分子軌道法により計算された骨格原子の電荷が、実験的に得られたヒドロキシインドール類の重水素置換位置を定性的に説明することを報告する。

2 計算方法

 本研究の目的は、ヒドロキシインドール類が重水素によってラベル化される位置の定性的推定に重点を置くので、Figure 2に示すようにヒドロキシインドール類の3位の側鎖をメチル基に変更してモデル化を行った。本研究においては、化合物:678910 の5つの基本骨格を持つモデル分子について半経験的分子軌道法を用いて構造最適化をおこない、そして、その構造と最小基底を用いた非経験的分子軌道法にもとづく電荷計算法により骨格原子の電荷を計算し、実験結果との比較を行った。
 構造最適化にはMOPAC93 Rev.2 - AM1[2]を使用した。その際、全ての構造パラメーターを最適化した。本計算方法は、簡便にヒドロキシインドール類などの有機分子の分子構造をよく再現することが知られており、現在広く利用されている。


Figure 2. Model molecules of hydroxyindole derivatives

 非経験的分子軌道法にもとづく電荷計算は、通常 Mulliken のPopulation Analysisが用いられることが多い。しかしながら、この方法は基底関数依存性が大きいこと、また最小基底関数を用いた場合以外は、物理的描像に曖昧な点があることが知られている。そのため本研究ではMerzらの方法[3]を電荷計算に採用した。電荷計算のための分子軌道としては、大きな分子への適用を考え、最小基底関数(STO-3G[4])による制限ハートリーホック(RHF)法による分子軌道を採用することにした。電荷計算のためのプログラムは、Gaussian 94 Rev. B.3[5]を使用した。このように、半経験的分子軌道法による構造最適化及び最小基底関数を用いた非経験的分子軌道法による電荷計算方法を採択したことで、重水素置換位置の定性的推定のための計算に要する計算コストを大きく下げることができる。

3 計算結果と考察

 Figure 3 に5つの基本骨格を持つモデル分子の原子上の電荷の計算結果を示す。計算結果をみると、ヒドロキシインドール類の隣接する炭素原子は自分自身とは反対の電荷を有していることがわかる。重水素置換の実験結果(Figure 1)と比較すると、ヒドロキシインドール類では、水酸基が結合している炭素原子に隣接する負電荷の大きな原子の水素がラベル化されやすいことが判る。


Figure 3. The atomic charges of model molecules calculated by Merz-Singh-Kollman's method

 ただしモデル化合物:8 については、計算された電荷の大きな位置すなわちアミノ基のオルト位と観測された置換位置(アミノ基のパラ位)は一致しない。これは置換基NH2の立体障害により、重水素供与分子がアミノ基のオルト位に近づくことができないためパラ位からラベル化されると考えることができ、重水素置換位置の定性的推定には立体障害の考慮が必要であることが示唆される。また、モデル化合物:8 の重水素置換において、アミノ基のパラ位を優先選択する他の理由として考えられることは、置換反応初期の中間状態の安定性である。重水素置換反応のごく初期の過程では、重水素供給分子の重水素がヒドロキシインドール類分子に接近し、水素結合などで安定化した中間状態を経ることが予想される。この際、不対電子対にある電子がこのような安定な中間状態を形成するのに重要な役割を果たすが、アミノ基には1つの不対電子対、水酸基には2つの不対電子対がある。これにより、最初の段階でラベル化供給分子が配位する事ができる可能性は、水酸基側がアミノ基側の2倍あることになる。また酸素原子は、フッ素原子を除く全原子中で最大の電気陰性度を有しており、窒素原子に比べ水素結合エネルギーが大きい。つまり、反応初期過程における中間状態の安定化が水酸基近傍で大きいことが予想され、そのためアミノ基のパラ位が優先的にラベル化されると考えることができる。
 結論として、ラベル化位置の予測のためには、まず電荷分布の計算を行い、水酸基の隣接する骨格原子の負電荷が大きいことを確認する。その場合、そこに結合する水素がラベル化される可能性が高い。モデル化合物:8 のように、ラベル化される可能性が2つ以上存在する場合には、置換基による立体障害や配位結合に関る不対電子対の数を充分考慮する必要がある場合もあるが、ヒドロキシインドール類の重水素ラベル化の位置の定性的予測は、半経験的分子軌道法によって得られた分子構造と最小基底を用いた非経験的分子軌道法による電荷の計算結果により可能である。
 さらに多くの例に対して、本方法の有効性を確かめること及び重水素置換のみでなく、ハロゲン置換位置の予測方法の開発等を今後の課題としたい。
 また、ヒドロキシインドール類の重水素置換反応機構の詳細は明らかではないが、有機電子論的には求電子置換(SE)反応に分類されると思われる。そしてSE反応の配向性は、原子上の電荷密度ではなく、フロンティア電子密度を用いて論じることが定説となっているらしい。しかしながら、本論文では結果を示さなかったが、最小基底(STO-3G)を用いて非経験的分子軌道法によって計算されたフロンティア電子密度では、実験的に観測されたヒドロキシインドール類の重水素置換位置を全く再現することができなかった。これは、ヒドロキシインドール類の重水素置換反応が、単純な求電子置換反応ではなく複雑な反応過程を経ることを示唆している。ヒドロキシインドール類の重水素置換反応機構の詳細な研究は今後の課題である。

 最後に、有益な示唆をいただいた論文審査員に深く感謝する。

参考文献

[ 1] Sogawa, K., Hashimoto, K., Shirahama, H., manuscript in preparation.
[ 2] Deware, M. J. S., Zoebitsch, E. G., Healy, E. F., Stewart, J. J. P., J. Am. Chem. Soc., 107, 3902 (1985).
MOPAC93.00, Stewart, J. J. P., Fujitsu Ltd., Tokyo, Japan, 1993. Available from Quantum Chemistry Program Exchange, University of Indiana, Bloomington IN.
[ 3] Besler, B. H., Merz, K. M., Kollman, P. A., J. Comp. Chem., 11, 431 (1990).
Singh, U. C., Kollman, P. A., J. Comp. Chem., 5, 129 (1984).
[ 4] Hehre, W. J., Stewart, R. F., Pople, J. A., J. Chem. Phys., 51, 2657 (1969).
Collins, J. B., Schleyer, P. v. R., Binkley, J. S., Pople, J. A., J. Chem. Phys., 64, 5142 (1976).
[ 5] Frisch, M. J., Trucks, G. W., Schlegel, H. B., Gill, P. M. W., Johnson, B. G., Robb, M. A., Cheeseman, J. R., Keith, T., Petersson, G. A., Montgomery, J. A., Raghavachari, K., Al-Laham, M. A., Zakrzewski, V. G., Ortiz, J. V., Foresman, J. B., Peng, C. Y., Ayala, P. Y., Chen,W., Wong, M. W., Andres, J. L., Replogle, E. S., Gomperts, R., Martin, R. L., Fox, D. J., Binkley, J. S., Defrees, D. J., Baker, J., Stewart, J. P., Head-Gordon, M., Gonzalez, C., and Pople, J. A., Gaussian, Inc., Pittsburgh PA, 1995. : Gaussian 94, Revision B.3.

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